ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 出生

生活の中の仏教用語

生活の中の仏教用語 - [080]

出生

「出生」
吉元 信行(よしもと しんぎょう)(教授・仏教学)

 辞書で「”シュッセイ”出生」を引くと、「”シュッショウ”を見よ」とある。文字どおり、胎児が母胎を出て生まれることである。「出生(しゅっしょう)」という名詞、あるいは「出生する」と動詞に使われる以外に、「出生地」「出生届」など、日常よく使われる言葉であり、これが仏教用語であることはあまり意識されないで使われている。
 仏典には、人が出生するということは、父母の和合など様々な因縁によって成立することが述べられ、「もしくは母が飲食をするとき、種々のこれこれの飲食物や精気(エネルギー)によって活名することが胎を受けることの根源である。形体が完成し、感官がそろい、母によって出生を得る」(『増一阿含経(ぞういつあごんきょう)』巻30)と説かれる。このように、出生という言葉には、私がこの世に生まれてきた背景は種々様々な縁(条件)によっているのだという意味が込められているはずである。
 このことを現代の我々にはっきりと教えてくれるのがブッダの出生をめぐる伝説である。このことはまた「生誕(しょうたん)」「降誕(ごうたん)」などという言葉でも讃えられる。よく知られているように、ブッダは生まれたばかりで北に向かって七歩歩み、「天上天下唯我独尊」と声高らかに獅子吼(ししく)したという。この言葉の字面を見ると、ブッダは何と傲慢な人であると思われるかも知れない。
 ところが、この部分に相当するインドの原典を見ると、「私は世界で最も老いた者である。これは最後の生である。もはや再生はない。」という文が加わっている。生まれたばかりの赤ん坊が最も老いたというのはどういうことであろうか。それは、誰よりも多くの輪廻を繰り返して今ここに生まれてきたという過去を背負った言葉であり、もうこれ以上生まれ変わることはないという決意を秘めた言葉ではなかろうか。そうすると、「唯我独尊」とは、「私は様々な因縁によって、誰よりもかけがえのない尊い命をもらってこの世に生まれてきた」という意味になる。出生とは、我々が今ここに生を受けて生活しているこの現象が如何に意味深いものであるかを考えさせてくれる言葉である。

Home > 読むページ > 生活の中の仏教用語 > 出生

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです