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きょうのことば

きょうのことば - [2020年11月]

あまりにも急いで恩返しをしたがるのは、一種の恩知らずである。

「あまりにも急いで恩返しをしたがるのは、一種の恩知らずである。」
ラ・ロシュフコー(『ラ・ロシュフコー箴言集』 岩波文庫 71頁)

  贈り物をもらえば誰もがうれしくなるものですが、その反面で、一抹の不安や気後れ、不快さのような感情が湧き上がることもしばしばあります。いや、ほとんどの場合は、そうかもしれません。というのも、贈り物は、貰いっぱなしというわけにはいかず、いつかはお返しをしなければならないからです。しかも、贈り物を理由なく拒むことも、たいていの場合はできません。そんなことをすれば、相手の面子を潰し、自分への信頼を損ね、結果的に人間関係を断つことにもなりかねないでしょう。贈り物を差し出されれば、ありがたく受け取ることが相手への礼儀だというわけです。つまり、私たちが贈り物を手にして複雑な感情を抱きがちなのは、受け取る義務とお返しをする義務を否応なく背負わされることに理由がありそうです。

  このような贈与交換のやりとりは、たしかに厄介な面をもつかもしれませんが、長い人類の歴史をとおして、地域や民族の違いを超えてひろく行われてきたコミュニケーションでもあります(M.モース『贈与論』参照)。というのも、贈与が果たしているもっとも大切な機能は、財そのものの交換や流通にあるのではなく、人と人とを結びつけるところにあるからです。贈り物には、贈り主のことを想起させる力が宿っているかのように、たとえそれが大量生産品であっても、受け手にとって他には代えがたい宝物になることがあります。贈与交換によって、モノを介した長期的で人格的な関係がつくり出されるのは、このためです。それに対し、金銭を介してモノやサービスのやりとりを行う商品交換の場合には、なかなかそういうわけにいきません。買い手は、作り手や売り手が商品に込めた思いや苦労のようなパーソナルな要素を削ぎ落した商品を受け取ります。自分で買った一枚のTシャツが、どこでどのような人たちによって作られたのかを想像することはあまりないでしょう。商品交換では、モノの来歴は漂白され、受け取るサービスは非人格化されるのです。そこでは、お互いの関係を切り離すような働きがつねに作動しています。

  とはいえ、商品交換では、品物の価値と同じ分だけをお金で支払う等価交換が基本であるため、売り買いをする両者は対等であり、お互いが自由な個人であることを保証してくれます。そのこと自体は、商品交換のもつ、見落としてはならない利点であり、贈与交換の厄介さと比べて格段の気安さがあります。しかしここでの自由とは、取引が終わればいつでも相手との付き合いを解消できるという、儚(はかな)さを伴った自由です。こうして考えれば、17世紀フランスのラ・ロシュフコー公爵(1613-1680)の箴言(しんげん)から引いた標題のことばが意味するところもよくわかるでしょう。贈与で受けた恩に対して、間を置かずにお返しをすることは、贈与を単なる商品交換とみなすことであり、相手との関係をすぐさま断ち切ろうとするふるまいに他ならないのです。たしかに贈与には、返礼の義務がありますが、適切なタイミングを損なえば、相手の恩や信頼を否定する「恩知らず」な行為に成り下がります。実際の贈与交換において行き交うモノが、釣り合うことは滅多になく、概して多かったり少なかったりするのも、縁の切れ目をつくることを避けるためかもしれません。贈与と返礼が等しければお互いすっきりするでしょうが、相手に恩を売ったり、負い目を感じたりする時間の経過の中で、人と人とのつながりは維持されます。贈与には、世の中を分断しないための人間社会の知恵が含まれているともいえるでしょう。

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