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きょうのことば

きょうのことば - [2020年09月]

義務が畏敬に値することは、生を享受することとはなんの関係もない。

「義務が畏敬に値することは、生を享受することとはなんの関係もない。」
カント『実践理性批判』(『カント全集』7 岩波書店 252頁)

  このことばは、ドイツの有名な哲学者であるイマヌエル・カント(1724-1804)が書いたものです。ここにある義務とは「~せよ」と私たちに命じる道徳の命令、わかりやすく言うと良心の声のようなものです。カントは、人間にはこの良心の声がここぞという時にちゃんと聞こえていて、できるかできないかは別として私たちは「本当は何をすべきなのか」ということをその瞬間わかっているはずだと言います。このような義務はたしかに「畏敬に値する」もの、つまり尊いものです。この声が聞こえているということは、人間と他の動物を分けるひとつの徴(しるし)だとも言えるでしょう。動物には「してよいこと」と「してはならないこと」がわかりません。それに対して人間にはこの声が聞こえて善悪がわかり、その上でそれに背いたり従ったりしているからです。

  ところが、問題はここからです。カントは、義務がこのように尊いものであるということは「生を享受することとはなんの関係もない」と言います。つまり、この義務の価値は生きる楽しみとはまったく無関係だと言うのです。これはいったいどういうことでしょうか。

  最初にこの文章を読んだとき、私は何だかびっくりしました。生きているということは多分すばらしいことです。生きているのが楽しいということも、本当にすばらしいことです。ところが、カントはそれとはまったく無関係な別の価値があり、それが人間の本質だと言っているように思えます。これは人間が他の動物よりも優れているという主張であると同時に、人間が人間であるがゆえに踏み込んでしまったとんでもない領域、人間であることの不自然、悲惨を意味しているように、私には思えたのです。さらにもうひとつ言うと、こうしたことすべてを考えていること自体がどこか過剰に不自然に歪んでいるような、かといってそこから簡単には出られないような、とても不思議な気持ちがしたことを覚えています。 

  旧約聖書の「楽園追放」の物語にも、人間は善悪の木の実を食べたことによって生を享受するエデンの園を追われたとあります。一度食べてしまったこの木の実を、もう吐き出すことはできません。私たちが知ってしまったこの善悪、この義務とは何なのでしょう。それを知っているとは、どういうことなのでしょう。こういうことを考えるとき、人は一歩、「哲学」という不思議な迷宮に足を踏み入れたことになるのです。

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