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きょうのことば

きょうのことば - [2020年04月]

すべてのひとは共に恭敬(くぎょう)もて聴け。

「すべてのひとは共に恭敬(くぎょう)もて聴け。」
『十地経論』(『大正新脩大蔵経』26巻 大正一切経刊行会 132頁)

  標題のことばは、中世初期インド仏教世界を代表する僧侶ヴァスバンドゥ(世親(せしん))の『十地経論(じゅうじきょうろん)』という注釈文献に引用される『十地経(じゅうじきょう)』のことばです。『十地経』は菩薩と呼ばれる仏教の修行者が覚者(ブッダ)を目指して登りゆく10の段階(十地)を説き明かした経典です。菩薩たちによるこの十地への歩みは菩薩道と呼ばれます。標題のことばは、菩薩道を歩み始めようとする者たちに向け、この道に対する信頼を生じさせるために語られたことばです。十地の説明に入る前段階の、序章の最後尾に置かれています。

  ここで「恭敬」と漢語に翻訳されているサンスクリット語gauravaは、原義としては「重み」を意味し、そこから転じて、信頼を置いた対象に対する「敬い」を意味します。敬いをもって「聴け」と指し示されるのはブッダのことばです。つまり『十地経』では「敬いをもってブッダのことばを聴くこと」が大切な心構えとして表明されています。では、なぜこの心構えが重要視されるのでしょうか。『十地経』の注釈文献『十地経論』を著した世親は「敬いをもって聴くことが身と心を整えるからだ」といいます。敬いがあることで「きちんと聴こう」と私の姿勢が正され(身)、敬いによってそのことばが自分の中に残る(心)。反対に、敬いをもたずに聴いたなら、そうしたことばは自分の中を素通りしてしまい、心に残らないといえるでしょう。

  また、標題のことばでは「共に」聴く、という点にも力点が置かれています。この点について世親は、自分ひとりで聴いていては「私の見解は正しく彼の見解は誤っている」というように、「自分の見解に固執するようになるからだ」といいます。ひとりよがりの聴き方では独断に陥りかねず、だからこそ、共に道を歩む者と共に聴くこと(それは共に話すことでもあります)が推奨されます。こうした難点を回避するため、「敬いをもってブッダのことばを共に聴くこと」が菩薩道の出発点にて強調されているのです。

  以上のことを大谷大学での学びに当てはめてみれば、「先生を敬いましょう」という単純な話に収まりきらないことは明らかです。ここで焦点が当てられているのは先生の人格ではなく、先生のことばをとおしてあらわれているもの(道)に対する信頼です。学びの現場は、語り手と聴き手の相互信頼によって成り立っています。その信頼を支える前提となるのが敬意です。私たちは敬意を払っていない相手、見下している相手のことばに耳を傾け、それを真摯に受けとめることはできません。信頼に値する相手だから、信頼するに足る相手だから敬うのではなく、相手に対する敬意があってはじめて信頼が醸成される。標題のことばは、学びのそうした出発点を示しているのはないでしょうか。

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