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きょうのことば

きょうのことば - [2020年03月]

鋳型を槌で壊すその瞬間、内なる金でできた像は清浄となる

「鋳型を槌で壊すその瞬間、内なる金でできた像は清浄となる」
『如来蔵経』(『大乗仏典第12巻 如来蔵系経典』 中央公論社 30頁)

  すべての生きとし生けるものたち(一切衆生)には、如来の本性が具わっており、悟りを得る可能性を有している—『如来蔵経』はこの考えを、9つの比喩を用いて示した経典です。

  その9つ目の比喩では、鋳造で像を作る様子が描写されています。焼かれて黒ずんだ粘土の鋳型に溶かした金を流し込み、金が冷えて固まったのを見計らい、工匠は、鋳型を打ち砕きます。すると鋳型の中から、光り輝く金の像が現れます。その瞬間を表現したのが標題のことばです。鋳型は煩悩を、金の像は如来の本性・如来の智慧を表します。鋳型の中にある限り、金は、輝きという特質を外に見せません。鋳型を壊してはじめて、その清浄な姿が現れるのです。同様に、衆生が有している如来の本性は、煩悩に覆われているために、力を発揮できません。これを出現させるためには、煩悩を打ち砕く必要があるのです。

  この比喩の中で、鋳型を打ち砕くのは工匠で、後に「工匠というのは如来の同義語」と解き明かされています。では、鋳型に喩えられている煩悩を打ち砕くのは如来なのでしょうか。如来が煩悩を打ち砕くというような記述は見えません。如来の役割は、私たち衆生に対し、如来の本性が具わっているとの気づきを与え、これを覆い隠している煩悩を打ち砕く手段となる仏法を示すことです。この如来の働きに呼応し、煩悩を打ち砕く主体となるのは、ほかならぬ私たち自身なのです。

  これを、学びの場に置き換えて考えてみましょう。学生は皆、目標を達成する可能性をもっている—教師は、学生にこのことを気づかせ、その能力が発揮されるよう、様々な方法を示して導きます。一方の学生は、教師の導きに呼応し、自身の可能性を自覚し、その発現を妨げているものを打ち破ります。能力を発揮すべく努める主体は学生自身であり、教師はあくまで、これを補助する立場にしか立てません。ただ注意すべきは、結果が出ないことをすべて学生の責任にしてしまうことです。学生も教師も、「可能性をもっている」との確信のもと、決して諦めてはならないのです。
 
  『如来蔵経』には次のようなことばも説かれています。すなわち「世の中に役立つものが胎中にあるのに…(中略)…自分は劣っているとの思いをいだいてはならない」と。如来の本性を有しているという点において一切衆生は平等であり、無意味な生命というものは存在しない。それゆえに、決して他人を見下し、そして自らを卑下してはならないのです。これは、学びの場に身を置く私たちが、常に注意しておくべき点でしょう。

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