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きょうのことば

きょうのことば - [2019年11月]

一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし

「一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし」
『浄土和讃』(『真宗聖典』東本願寺出版482頁)

  標記のことばは、釈尊の仏教を浄土真宗と確かめた親鸞(1173-1262)が、「浄土和讃」に歌ったものです。親鸞は、誰もが親しみやすいこの七五調の歌の形式で仏教の教えを表現しました。親鸞が製作した和讃の数は、実に五百首にあまるほどです。そこには、仏教が一部の選ばれた人だけのものではなく、生活する中でさまざまな苦悩や悲しみを抱える全ての人にとっての救いとなる教えでなければならないという、親鸞のこころがうかがえます。

  この和讃は、「浄土和讃」と題された一連の和讃の一首ですが、浄土のはたらきがそこに咲くはなの放つ光として表現されています。浄土に咲くはなは、その一つ一つから、三十六百千億の光明といわれるほどたくさんの光を放って、私たちを照らしてくださるというのです。浄土のはたらきであるはなの光とは、どのような者も漏らさず救いたいという阿弥陀仏のはたらきである、本願のことです。本願の光の照らし方は、一様ではありません。多様な生き方をしている私たち一人ひとりに応じた無数の光を放って照らしてくださるのです。その光に照らされて、私たち一人ひとりもそれぞれに輝くのだといわれているのです。

  またその光は、「いたらぬところはさらになし」と歌われています。届かないところはないというのです。太陽や月の光は、どれほど明るく照らしても、光が当たる場所があれば、必ず光の当たらないところがあります。それと同じように、私たちの社会にも経済的に恵まれた国もあれば、貧困にあえぐ国もあり、中にはその国さえ奪われ難民となっている人さえいます。そしてお互いが光の当たる場所を目指して、他と争い、傷つけあって生きています。親鸞は、このような社会を「濁世」ということばで表します。濁った水の中では互いに相手の顔がよく見えないように、濁った世とは、お互いの存在が見えなくなる世界です。他の存在がよく見えないということは、自分の都合だけで生きていることにも気づけないということでもあります。阿弥陀仏の本願の光は、どのような場所にいるどんな人であっても、照らさずにはおかないというはたらきを持っているのです。このような互いに傷つけ合う濁世を濁りとして知らせ、互いに尊敬し合える明るい世界である浄土に変革したいというのが阿弥陀仏の願いなのです。

  この光に照らし出されることによってはじめて、私たち一人ひとりのいのちがだれとも比べる必要のない、かけがえのない尊厳性をもっていることが明らかになる。浄土のはたらきを親鸞はこのように表現しているのです。

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