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きょうのことば

きょうのことば - [2019年06月]

無一物の師、無邪気の弟子

「無一物の師、無邪気の弟子」
清沢満之「ソクラテスに就きて」(『清沢満之全集』第7巻 岩波書店 267頁)

  標記の言葉は、大谷大学初代学長清沢満之の「ソクラテスに就きて」という文章の一節です。清沢は、ソクラテスを深く尊敬し、とりわけソクラテスの教育の方法に深い感銘を受け、自身が教育を行う際、彼の教育法を手本としました。清沢はこの文章の中で「活法」、すなわち活き活きとした学びを実現する教育は、「問答法」にあると言い、具体的に次のように述べています。

無一物の師、無邪気の弟子、問難往復以て事理を討究する、是れ開発的教育に至当の方法たらずや。
  腹に一物(心中に何かたくらみを隠しもっていること)という言葉があります。ここで清沢の言う「無一物の師」とは、何一つ持たない先生という意味ですが、それは何も知らないということではなく、まさに自分の弟子を増やしてトップに君臨してやろうというようなたくらみを持っていないということです。「無邪気の弟子」とは、先生に認められてやがては自分も上の立場に立ってやろうというような邪な気持ちを持っていない生徒をいいます。そのような間柄に於ける問答によってこそ、目覚めと頷きを伴う活きた教育が成立すると清沢は言うのです。

  ところで、釈尊の伝記に、有名なキサー・ゴータミーの話があります。ゴータミーは、愛するわが子を突然亡くしてしまいます。彼女はそれが受け入れられず悲歎に暮れますが、やがて周囲の人の勧めで釈尊に会いに行き、「この子を生き返らせてください」と問いかけます。釈尊は、「わかりました。それでは今から町に行き、家々を訪ね、芥子の粒をもらってきなさい。ただし、まだ一人の死者も出したことのない家からもらうことを必ず守るように」と答えられました。言われた通り家々を訪ねますが、死者を出したことのない家はありません。どの家々も生者の数より遥かに多くの死者を出していることに、ゴータミーは気づくのです。ゴータミーに釈尊が尋ねます。「芥子の粒は手に入りましたか」と。それに対して気づきを得たゴータミーは、「わたしをあなたの弟子にしてください」と答えるのです。釈尊が伝えたいことは、言うまでもなく無常ということです。どれほど愛が深くても、思いどおりに生きられるということはなく、思いを超えた厳粛な事実の中を私たちは生かされているのです。しかし、釈尊はそれをそのままゴータミーに伝えることはせず、ゴータミー自身がその事実に気づくのを待ちます。相手の中に気づき、つまり自覚が開発されるように対話によって導いているのです。

  「無一物の師、無邪気の弟子、問難往復」と言われるように、道理の前では、師も弟子も平等である。道理に虚心に耳を傾ける者同士の問答によって活き活きとした学問が成り立つのではないでしょうか。

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