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きょうのことば

きょうのことば - [2018年09月]

如来は寧(むし)ろ此いはゆる唯(ただ)仏与(と)仏の交互媒介態そのものに外ならない

「如来は寧(むし)ろ此いはゆる唯(ただ)仏与(と)仏の交互媒介態そのものに外ならない」
田辺元「懺悔道としての哲学」(『田辺元全集』第9巻 筑摩書房 201頁)

  田辺元(1885-1962)は近代日本の哲学者です。独自の哲学を構築し、西田幾多郎とともに京都学派と称せられる独自の哲学的潮流を作り出しました。

  標題のことばは、田辺の社会哲学を仏教的用語とマッチさせながらうまく言いえたフレーズと思われます。2点着目したいと思います。1点目は「理想社会の実現と個人の役割」、2点目は「仏教思想の社会的実現」です。

  まず田辺は如来を超越的に存在する人格的なものと考えるのではなく、今この眼前の世界そのものが如来であると考えます。これは通常の発想とは大きく異なると思います。如来とは、死後の世界や目に見えない世界に存在する絶対者という意味で述べられていません。さらに、この現実的世界に「如来」という超越者が存在するのではなく、世界そのものが「如来」であると考えられています。これは何を意味しているのでしょうか。我々人間は常にこの世界で自らを反省し、生を営まざるを得ません。このような人間の中で悟りを求めて仏になろうとする人々がいます。このような人々はこの世で修業を積みますが、我々人間はこの世で他の人々と関わらざるを得ません。この点に田辺は着目します。そのような関わりの中でさまざまな葛藤や相克が起こります。しかし我々人間はそのような葛藤を引き受け、相互に協働して生きてゆかざるを得ません。このように仏をめざす人々が相互に生きていくこと(交互媒介)、つまり人間社会の交わりそのもの(媒介態)が「如来」なのです。困難な現実の中にこそ、理想への道が開かれているのかもしれません。もちろん個々人の考えや立場は安易に同じにすることはできません。どこまでも葛藤や相克は存在します。そのような厳しい現実を引き受けながらも、共同世界を築いていくことは、現在の民主主義社会の構築や多文化社会の形成に求められる姿勢ともなるでしょう。このように「理想社会の実現と個人の役割」が述べられています。

  2点目の「仏教思想の社会的実現」についてですが、これまで仏教的な立場から社会哲学を構築することは決して多くはありませんでした。言うまでもなく、このことばの背後には仏教的な発想があります。しかしたとえ我々が仏教徒でなくとも、このような思想は多くの人を納得させる普遍性を有しています。仏教思想は単に仏教徒だけに通用する思想なのではなく、広く人類の発展や理想の実現に寄与する可能性を秘めていると思われます。我々は、社会の在り方や人間の生き方に資する可能性を、まだまだ仏教的伝統から見出すことができるのではないでしょうか。

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