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きょうのことば

きょうのことば - [2017年05月]

悲心無尽にして、智また無窮(むぐう)なり。

「悲心無尽にして、智また無窮(むぐう)なり。」
善導『観経疏』(『真宗聖教全書』一 487頁)

 標題のことばは、中国浄土教の大成者と言われる善導(613-681)のことばです。彼の生きた唐の時代は、西遊記の三蔵法師のモデルと言われる玄奘がインドから帰国し、国家事業として、多くの仏典が翻訳されるなど、仏教が隆盛を極めた時代です。そのような状況で、善導は学問僧のような生き方ではなく、市井の人々の中へ入り、出家、在家を問わず共に歩むことのできる仏道を唱導していきました。

 標題のことばは、善導が仰ぐ仏のこころを次のように明かしています。
 

衆生(いきとしいけるもの)を漏らさず救うと誓った阿弥陀仏の大悲心は尽きることがなく、その智慧もまた窮まりなくどこにおいてもはたらきつづけているのです。
 
 ここで善導は仏の慈悲と智慧の無限なるはたらきの中に、衆生は存在していると述べており、そこに自らの拠り所を見出します。仏の「慈悲」とは、衆生を愛し、いつくしみ、あわれみ傷んで苦しみを超えさせようとする心のことです。また「智慧」とは、苦しみを超える道理を明らかに見抜くはたらきを言います。では、そのような無限の慈悲と智慧に拠って生きるとは、一体どういうことでしょうか。

 人間は有限の身を生きています。しかし私たちは、善い/悪い、好き/嫌い等自らの価値観を相対的なものと気づき、更にその不完全性を明瞭に知ることは難しいように思います。自分の考えや感じ方を自明なものとして人や世界を見る時、分かっているつもりにはなれても、自分のものの見方から一歩も外に出ていないことになります。まわりにいる人々に心をくだき、理解を深めようという努力が真摯であればあるほど、それを完全に実行することができない自分の姿がはっきりと知らされ、むしろ悲しみの中に生きる人を理解しようとする心よりも結局は自分を守ることにのみ自らの生き方が覆われてしまうという課題が見えてくるのではないでしょうか。

 そうすると、上記のことばは、そのような課題が尽きることのない人間の現実に応答するものであると理解できます。仏の無限なる慈悲と智慧に拠るということは、自らの有限性を自覚し、人間の不完全さから眼をそらさないからこそ、そのような私たちにとって欠くことのできない立脚地を見出したということにほかなりません。善導は、いつでも、どのような状況の中に生きることになっても「衆生を漏らさず救うと誓った」仏の慈悲と智慧こそが私たちの生きる大地となるのだと語りかけているのです。

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