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きょうのことば

きょうのことば - [2016年11月]

悲願の一乗帰命せよ

「悲願の一乗帰命せよ」
親鸞「浄土和讃」(『真宗聖典』485頁)

 標題のことばは、『大無量寿経』のこころを詠(うた)った親鸞の和讃の一節です。この経典を親鸞は真実の教えとして仰ぎますが、それはいつでも、どこでも、いかなる人にも苦しみを超える生き方を開く阿弥陀如来の悲願(本願)の教えを説き明かしているからです。「悲願」とは、誰一人ももらさずに救済しようとする慈悲の心によって発(おこ)された阿弥陀仏の願いをいいます。「一乗」とは、一つの乗り物という意味で、あらゆる人々がひとしく仏になることを説く教えを、一乗と表現します。「帰命」とは自らの人生の拠り所として信じ順(したが)うことです。従って標題のことばを意訳すると次のようになります。

阿弥陀仏の悲願によって成り立つ、あらゆる衆生をひとしく苦しみから超えさせていく一乗の教えを人生の拠り所としなさい。

 このような悲願の意味は、現代の多くの日本人が持つ理解とは異なるものだと思います。例えば「悲願達成」と表現される場合、悲願という言葉は私たち人間が懐く、強い願望を意味します。しかし親鸞にとって悲願とは阿弥陀という仏(真実に目覚めた者)の願いであり、人間にとっては信じ順うべき内容です。この違いは私たちに大切なことを教えているように思います。

 少し極端な例に感じるかもしれませんが、人間の願望がもつ危険性について考えてみましょう。今年の7月、障がいのある方々を標的にした殺傷事件という大変痛ましい出来事が起こりました。事件による当事者の方々の大きな傷み、苦しみに加えて、容疑者の言動が「価値のない」いのちをなくすことを社会にとっての「善」と考えるような優生思想とつながりうるものであったために、今でも多くの人々が強い不安と苦しみの中に生きておられます。人のいのちに優劣をつけ「劣った」いのちを奪うことが「善」だと考え、実際行動までできるという人間の恐ろしさを突きつける出来事だったと言ってよいのではないでしょうか。

 このような愚かさを持っている存在が人間であるということを親鸞は深く自覚した人でした。そうだからこそ、人間がつくり出す優劣や善悪の価値観を超えて、人間全体を支える拠り所が私たちには必要なのだと親鸞は語るのです。「あらゆる衆生をみなひとしく苦しみから超えさせたいという仏の悲願を人生の拠り所とせよ」という標題のことばは、750年の時を越えて私たち一人ひとりにその尊厳性を支え輝かせようとする悲願に出あってほしいとよびかけているのです。

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