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きょうのことば

きょうのことば - [2016年10月]

学問と云えば、日用を離れたる別天地の事とするは実学の認可せざる所なり。

「学問と云えば、日用を離れたる別天地の事とするは実学の認可せざる所なり。」
清沢満之「ソクラテスに就きて」(『清沢満之全集』第七巻 岩波書店 268頁)

 標記のことばは、真宗大学(現、大谷大学)の初代学監である清沢満之が雑誌『無尽灯』に掲載した文章の一節です。このことばを分かりやすく言い換えると次のようになります。

学問というと日常生活を離れた別世界のことのようですが、そうではありません。そのような考えは実学が決して認めないことです。

 ここで清沢が、「実学」ということばを一般に流布しているのとは異なる意味で用いていることに気づいた人もいることでしょう。一般的に「実学」とは、そこで学んだ知識や技法がそのまま社会生活に役立つような学問のことと理解されますが、そのような学問を清沢は「死学」と厳しく批判します。なぜならば、人生で直面する問題に対し、既成の知識をもとに「このようにすれば必ずうまくいく」という答えを出せる型にはまった技法などないからに他なりません。

 数年前、寺院の法務をしながら大学での学びを続けている学生に「幼い子どもを亡くされたご家庭の法要に行くのだが、何を語ればよいのでしょうか」という問いかけを受けました。縁によって生まれ、生き、いのち終えていかねばならない諸行無常の道理を知識としては十分に知っていても、深い悲しみと言葉にならない喪失感を前にして、理論上の話が何の力も持たないことを、肌で感じての問いかけであったように思われます。

 身近に接する問題についての対話から、自らの見識の浅さと視野の狭さに気づかされ、その気づきがさらなる学びの原動力となり思索が深められていく。そのような営みによって獲得されることこそ本当に身についた実学の成果であると清沢は言います。既成の知識では、どうしてみようもない出来事が私たちの日常にはあふれています。本当に問い、学ぶべきことは日常を離れた別のところにあるのではなく、私たち一人ひとりの日常生活の現場から浮かび上がってくることなのではないでしょうか。

 人生の諸問題に向きあうとき、本当に問い学ぶべきことはその問題に向きあう「自己」であり、明確にすべきは自らが何を大切なこととして問題に向きあうのかという立脚地(よりどころ)であると清沢は確かめていきました。その清沢のことばは、学校という限定された場所や学生生活という限られた期間のみではなく、生涯をかけて問い、学び続けるべき真の実学とは何かを私たちに問いかけているように思われます。

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