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きょうのことば

きょうのことば - [2015年10月]

我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ

「我他力の救済を念するときは、我が世に処するの道開け、我他力の救済を忘るゝときは、我が世に処するの道閉つ」
清沢満之「〔他力の救済〕」(『清沢満之全集』第六巻、329頁)

 標記のことばは、清沢満之が亡くなる二ヶ月ほど前に著した「他力の救済」の冒頭のことばです。この「他力の救済」は、清沢が真宗大学(現、大谷大学)で催された親鸞聖人誕生会に際して寄せたもので、全学生の前で読み上げられたと伝えられています。

 「他力」とは、他人の力や神頼みのことではなく、阿弥陀仏の本願のはたらきを意味します。阿弥陀仏の本願とは、一言で言えば、阿弥陀仏の浄土を依り処として生きて欲しいという、私たちに向けられた阿弥陀仏の願いのことです。阿弥陀仏はどのような境遇にある者も分け隔てせず見捨てず救う仏であり、その浄土は優劣や損得、有益無益という世間の価値観を超えた世界として経典に説かれます。

 翻って、私たちの生きる世界では、古くから性別や人種、身分の違いによって人間を分け隔てし、差別することが行われてきました。現代でも、学歴、職業、肩書き、能力の有無、健康か否かなどを基準に役に立つ人間か否かを値踏みするような世の中に私たちは生きています。確かに、高い評価を受けることは大切なことですが、そのことで傲慢となり、周囲を見下してしまうこともあるでしょうし、反対に、誰からも必要とされない状況に置かれると、生きる意欲を失い自暴自棄になることもあるでしょう。周囲の評価に一喜一憂して生きることは苦しみであり、また、自分を見失うことにもなるのです。

 阿弥陀仏の本願は、このような世の中を生きる私たちに、世間の価値観を超えた世界(浄土)に生きることを呼びかける願いとして説かれます。それは、何らかの世間の尺度で、一人ひとりの存在の尊さをはかることはできないことへの気づきを促しているのです。清沢は、この阿弥陀仏の願いである「他力」の救済を憶(おも)いおこす時、世間の価値観に縛られ自らを苦しめるあり方から解放され、生き抜くことが困難な世の中を力強く生きる道が開かれるのだ、と語るのです。

 清沢は「他力の救済」の中で、この教えがなければ人生の悶え苦しみを免れることはついになかっただろう、と語ります。絶筆となった「我信念」では、この教えがなければ「自殺を遂げていたでしょう」とさえ述べます。清沢は、生きづらさを感じ、自己肯定感をもてず、時に自死を考えることもある人生を生き抜く力を与えてくれる教えとして、阿弥陀仏の本願を讃(たた)え、学生にも語りかけていったのです。

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