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きょうのことば

きょうのことば - [2015年06月]

宗教は死生の問題に就いて安心立命せしむるもの也。

「宗教は死生の問題に就いて安心立命せしむるもの也。」
(『清沢満之全集』第八巻 111頁)

 今月は、大谷大学の初代学長清沢満之(1863~1903)が生まれた月であり、また、亡くなった月でもあります。清沢は30歳の頃、当時は不治の病であった肺結核を患い、真宗大学寮の教職を辞し、療養(りょうよう)生活を送ります。「保養雑記」はその当時の日記です。清沢は学生時代にも「死」についての思索を記していますが、肺結核という病を通して死をより実存的に問うようになります。差し迫る死の不安の中で、彼は標記の言葉を日記に綴りました。

 「死生」とは、私たちが死すべき命を生きていることを表す言葉です。命が永遠でないことは誰もが知っています。しかし、日頃から死を自覚しているかというと、そうではなく、むしろ、死を遠い未来のことと考え目を背けて生きています。ですから、死を身近に感じる出来事に遭遇したり、余命宣告を受けるような病気になると、なぜ自分がこんな目に遭わねばならないのかとうろたえ、苦しむことになるのでしょう。

 差し迫る死と向き合った清沢は、いかに「安心立命」、すなわち心の不安を除き安らぎを得ることができるのかを思索します。死から目を背けて生きるのではなく、また死への不安を懐(いだ)いて生きるのでもない。死とともにあるこの命を安らぎに立って生き尽していくことがいかにして可能となるのか。清沢は、宗教こそがこの問いに応えるものなのだと述べるのです。

 清沢は同じ「保養雑記」で、生と死とが相反(あいはん)すると認識しているうちは本当の安らぎに立つことはできないと述べます。なぜなら死の不安はどこまでも生に執着し死を避けたいと思うことから生じるからです。清沢は、生も死も縁によって起こる事実である、という仏教の教えに依りながら、縁によって生まれ生き死んでいく自らの身の事実を受け止めることなくして、本当の安らかさはないと確かめていきました。

 清沢には「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり」との言葉もあります。私たちは、生と死をあわせもつ存在です。命に限りがあるという事実は、はかなさや空しさを感じさせるものですが、むしろ本当に空しいのは限りある人生について深く思いを致すことなく一生を終えていくことではないでしょうか。清沢は人生を「死生の問題」であると捉えました。この究極的な問いに向きあうことで、初めて私たちは確かな生のあり方を問い、限りある人生をどのように生きるのかを真剣に問うこともできるのではないかと思われます。

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