ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > きょうのことば > 生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき

きょうのことば

きょうのことば - [2015年02月]

生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき

「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」
至道無難「即心記」(『至道無難禅師集』 春秋社 31頁)

 至道無難(しどうむなん)(1603-1676)は、現在の岐阜県関ヶ原に生まれた臨済宗の僧侶です。元々彼は宿場で大名などの宿泊所(本陣)を営んでいたのですが、50歳前後の頃に思うところあって出家しました。「即心記」は彼が68歳の時にまとめられたとされている法語集です。

 標題のことばでは、まず生きながら死人となるという、一見謎めいたことが言われますが、実はこれと同様のことは他の多くの宗教伝統などでも説かれており、例えばイスラーム教の神秘思想家の一人、ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207-1273)も、預言者ムハンマドの語ったとされる「死ぬ前に死ね」ということばを伝えています。それらのことばで言われる生前の「死」とは、自分のエゴを無にすることを意味します。無難はさらに続けて、そうした生きたままでの死を完全に実現したならば、思いのままに振る舞ったとしても、その行い(わざ)はよいものとなると述べています。

 ところで最近、長所も短所も含めた自分の全存在を認めて好きになろうという文脈で「ありのままの自分」といったことばをよく聞きます。しかしそのように自分で自分を肯定してみても、もし自身のエゴに囚われたままの状態で思いのまま、ありのままに振る舞ったならば、その人は必ずや周りの人々と衝突し、彼らを傷つけることになるでしょう。また自分も、結局は思い通りにいかず苦しむことでしょう。

 標題のことばによるならば、「思いのまま」や「ありのまま」が許されるのは自分のエゴを完全に克服した時です。その時、人間の思い計らいを超え、別け隔てのない、まったく自由な「ありのまま」の境地が開けるのです。そこにおいて「ありのまま」という概念は非常に重要な意味をもちます。例えば仏教でも、絶対的真理を表す「真如」や仏の別称である「如来」の「如」とは「ありのまま」という意味ですし、また中国の老子の「無為自然」ということばも、作為のない「ありのまま」の理想的な境地を指しています。そうした「ありのまま」は決して安易な自己肯定ではありません。

 もっとも、自分は到底そんな境地に到達し得ないと多くの人は思うかもしれません。しかし「自分はもうこれでよい」と自分で決めつけて反省することをやめてしまったならば、人としての成長はそこで終わってしまうことでしょう。常に今の自分の有り様を問い直しつつ、次なる高みを目指して生きることこそ大切なのではないでしょうか。

Home > 読むページ > きょうのことば > 生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです