きょうのことば - [2015年01月]
「よきことをしたるが、わろきことあり。わろき事をしたるが、よき事あり。」
『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』 889頁)
私たちは、日ごろ出会うものごとや人物を、それまでの自分の経験や、さまざまなものの見方、社会の常識、倫理観などと照らし合わせながら、「よい」ものと「わるい」ものとに分けて判断し、評価しています。私たちは誰しも、自分の考え方や価値観を知らず知らずのうちに「正しいもの」とし、それにこだわる性質を持っています。そして、そうした一人ひとりの考え方、価値観があるまとまりをもって形づくっているのが、社会の常識や倫理観といわれるものです。
この一人ひとりの考え方や価値観、さらには社会の常識、倫理観といったものは、個々の人や世代、地域などによって実に多種多様です。ある人、ある社会にとっての常識が、別の人や社会にとっては、全く逆の非常識と受け止められることは、私たちのよく経験することです。また、相手にとって「よい」と信じてしたことが、かえって相手さらには自らにも「よくない」結果を招いてしまうことも少なくありません。それは、互いの価値観が異なるにもかかわらず、無意識のうちに自らの価値観を「よい」とし、これに固執しているからではないでしょうか。
冒頭の言葉は、浄土真宗の僧侶、蓮如(れんにょ)(1415~1499)の言行を集めた書物の中のものです。この前後の文章の大意は次のようなものです。
よいことをしたのがわるいことになってしまう場合がある。逆に、わるいことをしたのがよいことになる場合もある。よいことをしても、「私は、正しい教えにもとづいてよいことをしたのだ」と思い、そこに、私が、という自分を中心に置こうとする思いがあるならば、それはわるい結果につながってしまうだろう。それとは反対に、たとえわるいことをしてしまったとしても、自らの自己中心的な思いに深く気づかされたならば、わるい行いの経験が、かえってその人を真実に目覚めさせてゆくのだ。
私たちは、何かをする時、「これをすればよくなるか、わるくなるか」「あれをしたことはよかったか、わるかったか」というように、自分の価値観とそれにもとづく評価にとらわれてしまいます。しかし冒頭の言葉は、私たちのそうした、独善的な姿に気づかされることこそが、本当に大切なことであると言っているのです。新しい年のはじまりを迎えて、改めて、自分が他者とどのように関わっているのか顧(かえり)みてはどうでしょうか。