ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > きょうのことば > 快楽、娯楽、気晴らし、五官や虚栄心の充足は、歓びではない。

きょうのことば

きょうのことば - [2014年08月]

快楽、娯楽、気晴らし、五官や虚栄心の充足は、歓びではない。

「快楽、娯楽、気晴らし、五官や虚栄心の充足は、歓びではない。」
シモーヌ・ヴェイユ(『ヴェイユの言葉』、みすず書房34頁)

 「どのようなときに歓(よろこ)びを感じるか」と問われたならば、多くの人は、例えば美味しいものを食べたり、仲のよい友人と遊んだり、趣味に興じたりしているとき、と答えるのではないでしょうか。また、好ましい出来事が身の回りで起こったり、人に誉められたりしたときにも、私たちは何らかの歓びを感じることでしょう。

 標題の言葉は、フランスの哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)によるものですが、彼女は上記のような歓びとはあまり縁のない人でした。ユダヤ人の父をもち、二つの世界大戦の時代を生きた彼女は、ナチスから逃れるためアメリカに亡命しますが、晩年、祖国フランスの解放を目指して対ナチズムの抵抗運動に身を投じるも、病に倒れ、34歳にしてその生涯を終えました。

 標題の言葉では、私たちが通常抱く世間的な歓びは、歓びではないと言われています。しかしヴェイユは、歓びそのものを否定するわけではありません。むしろ「歓びは魂の本質的な欲求のひとつ」であり「人間の思考は歓びを糧とする」と述べています。そのうえで彼女は「歓びは、内部からわきおこるべきものだ」と主張します。

 そうした内部からわきおこる「真の歓び」について、彼女はここで多くを語ってはいません。しかし私たちがとかく自分の外の世界にばかり目を向けがちであるのは、その通りではないでしょうか。実際、冒頭に挙げた「歓び」の例も、外的な要因によるものばかりです。私たちは囚(とら)われの心から、自分と他人を比較し優越感や劣等感を抱いたり、また、自分にとって好ましいものを歓び、好ましくないものを嫌悪して一喜一憂したりしていますが、そうした私たちの愚かな有り様は、古今東西の多くの宗教者や哲学者によっても戒められてきました。彼らはそれぞれの思想表現によりつつも、私たちが囚われを離れ、自分自身の心を正しい方向へと導いていくことで、相対的な歓びではない、絶対的な安らぎの境地に至り得ると異口同音に説いています。

 娯楽や快楽などは、刹那(せつな)の歓びを与えてはくれますが、すぐに雲散霧消してしまい、私たちの生を高みへと導いてはくれません。しかし人類の歴史を振り返ると、現代ほど多くの娯楽に満ちた時代はないと言えるでしょう。それは、私たちの内面が空虚になりつつあることの現れなのかもしれません。外的な楽しさで気を紛らわせてばかりいるのではなく、しっかりと自分自身を見つめて生きることの大切さを標題の言葉は教えてくれています。

Home > 読むページ > きょうのことば > 快楽、娯楽、気晴らし、五官や虚栄心の充足は、歓びではない。

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです