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きょうのことば

きょうのことば - [2013年10月]

独り宗教の学校は、パンのために悩まされざる底の修養を得せしめんために建設す。

「独り宗教の学校は、パンのために悩まされざる底の修養を得せしめんために建設す。」
『清沢先生言行録』(『清澤満之全集』第八巻 法藏館 492頁)

 1901(明治34)年10月13日、真宗大学(現、大谷大学)は東京巣鴨の地に移転開校します。その開校の式典において、初代学長清沢満之は真宗大学を「宗教学校」であると語りました。清沢のいう宗教学校とはどのような内容をもつ学校なのでしょうか。標記のことばはそのことを端的に示す一文として、清沢門下の一人、安藤州一が伝えたことばです。

 「パンのため」とは生活の糧を得ること、つまりは経済的な自立を意味します。自分一人がどう食べていくのか、また、どう家族の生計を立てるのかという問題です。これは私たちが生きていく上で重要なことであり、この問題に悩まされるのが人間の現実です。ですから、この問題を解決するために就職に有利な資格を取得し、仕事に必要な技能を修得する等、生活の糧を得ていくすべを学ぶことが求められます。このような学びが、経済的に自立した生活を送るために重要であることは間違いありません。

 しかし、昨今の私たちを取り巻く状況は、経済的な自立が決して容易ではないことを教えています。就職難、リストラ、ワーキングプアなど、これらの状況は、国際的な経済状況の変化や、企業の利益確保を目的とした人員削減など、個人の努力や能力を超えた要因によってももたらされています。この事実は、パンのために奔走する生き方が必ずしも安定した生活、安心できる人生を約束しないことを物語っています。

 清沢はパンに象徴される生活問題を、要するに人間の生と死の問題であると捉えていました。パンを離れては生きられないのが私たちの現実であり、そこには必然的に死に対する不安が存在しています。私たちの素朴な感情は、どこまでも生を重視し死を受けいれようとはしません。つまり、パンの問題に悩まされる原因はパンを得られないということにあるのではなく、生への強烈な執着に源がある、と言うのです。

 この執着から解放されていく道を説く仏教の智慧を人生の依り処とし、自分自身を見つめていく生き方、それを清沢は「底の修養」ということばで語りました。そして、その生き方は、どのような状況にある生も、どのような終わり方をする死をも包んで、自分の一生を受けとめて生きていきたいという深い願いが満たされていく生き方でもあるのです。

 私たち一人ひとりが仏教の智慧に依って自らの生き方を問い尋ねる学場であること、そのことを清沢は宗教学校としての真宗大学に願ったのだと思われます。

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