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きょうのことば

きょうのことば - [2013年09月]

あらゆる人々は、ひたすら、死に向かって進んでいる。

「あらゆる人々は、ひたすら、死に向かって進んでいる。」
『スッタニパータ』(『ブッダの詩I』原始仏典 第七巻 講談社 225頁)

 人間はかならず死を迎える。これほど自明のことを、古代インドで伝承されてきた経典は、何を意図して真正面から表現しているのでしょうか。

 我が子を失った悲しみのあまり七日間食事をとらなかった者がいました。その者をあわれに思った釈尊は、その者の家に赴き、悲しみを除くために語ったのだ、という注解が残っています。大切な人を亡くして嘆き悲しんでも、何かうしろめたいことがあって自分を責めても、まったく無駄であると、この経典のなかで繰り返し語られています。「悲しみを除くために」とありますが、気安めの言葉、安堵できる言葉がそこで述べられるわけではありません。むしろ、幸福を見いだすことはもとよりできないのだと言わんばかりです。では、なぜこの言葉が悲しみを除く助けになると言うのでしょうか。そして、死を前にして、人間がなすべきことは何も残されていないのでしょうか。

 我々は他者の死に接したとき、嘆き悲しみ、その事実を受け入れまいとして「死んだなんてありえない」「生き返ってほしい」と抵抗するかもしれません。あるいは、いまはできるだけそのことを考えないという態度をとることができるかもしれません。しかし、それは何の役にも立たないと釈尊は言います。人の死に接してわき起こる「嘆き」「願い」「憂い」を矢に喩えて、自分の内部に突き刺さっていて極めて抜きがたい三つの矢を抜き去るがよいと釈尊は語るのです。そのような矢を抜き去った者こそ、あらゆる悲しみを越えて心の平穏を得ることができると言うのです。

 死を前にしては、いかなる人間の抵抗も無益に終わるでしょう。だから、私は「嘆く」「願う」「憂う」という態度を最初からとらないのだと、釈尊は宣言しているように思われます。死は人間から一切を奪い去る。しかし、やがては死を迎えるという事実に直面してもなお奪い去られないものを釈尊は発見したのです。それは、いずれ死の力に屈しなければならなくとも、その事実に対して「いかなる態度をとるか」、言い換えれば、「いかに生きるか」を決定するという人間に許された最後の態度決定の自由です。そして、この「いかに生きるか」という態度決定は、死を迎えるまで問われ続ける課題だと言えるでしょう。

 この釈尊の言葉は、いつか死を迎えるという極めて自明のことを示すことによって、では「あなたはいかに生きますか」と問いかけていると言ってよいでしょう。

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