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きょうのことば

きょうのことば - [2012年12月]

美しい服を着ている人が、鏡をのぞきこんで服に見とれるとき、その美しい服は、虫や蛇に変身してしまう。

「美しい服を着ている人が、鏡をのぞきこんで服に見とれるとき、その美しい服は、虫や蛇に変身してしまう。」
ヴィトゲンシュタイン(『反哲学的断章』青土社 63頁)

 人前では、可愛く綺麗な服に身を包み、美しくお化粧していたいと思う女性は少なくないでしょうし、男性でも、かっこいい服で身を飾りたいと思う人はいることでしょう。しかし標題のことばは、そうした服を身にまとい見とれた途端、その服は虫や蛇のようなグロテスクなものに変化してしまうといいます。これはどういうことでしょうか。

 まず、そもそも飾ることにはどのような意味があるのか考えてみましょう。ヴィトゲンシュタインは別の箇所で、建築(ここでの「建築」とは、単に機能性のみを満たした建物ではなく、一定の様式美をもったものを指します)について、それは何かを賛美するものであり、それゆえ賛美するものが何もないところでは、建築は存在し得ないと述べています。つまり建築の持つ様式美、すなわち飾りは、建物や街並みなどを美しく見せること自体を目的としたものではないことがわかります。さらにそうした飾りは、建物そのものを超えた何かを賛美することで、初めて意味をもつとされています。その「何か」とは、当然それ自体としては表現を超えていて、だからこそ偉大であり、美しい飾りによって賛美されるに値する何ものか、ということになります。

 そうした飾りの最も顕著な例は宗教美術に見られます。例えば仏教においても、ある時期から仏像が作られるようになりました。それは現在でも、寺院などに安置され、それぞれの文化や宗派の教義に従って飾られ、供物が捧げられるなどしています。しかし言うまでもなく、その像自体が仏であるわけではありません。仏そのものは、言葉や図像による表現を超越したものです。それでも、その像を飾り敬うことに意味があるのは、その像が表現を超えているはずの仏自体を象徴的に表しており、それを荘厳(しょうごん)することが、形を超えた仏の賛美につながるからに他なりません。

 ここで標題のことばに立ち返ると、人が美しい服を着て悦に入っている時、その服は、その人以上の何かを賛美する働きを失っています。さらに、飾られた自分に見とれるということは、狭小な自己愛に囚われ、驕り高ぶることにもつながります。その時その美しい服は、毒虫や毒蛇のようにその人に害をもたらすことになるでしょう。身だしなみへの適度な気配りは必要ですし、ある程度のおしゃれも悪くはありませんが、飾られた自分に囚われないよう気をつけたいものです。

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