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きょうのことば

きょうのことば - [2012年06月]

難思の弘誓は難度海を度する大船

「難思の弘誓は難度海を度する大船」
親鸞『教行信証』総序(『真宗聖典』149頁)

 このことばは、親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の冒頭に出てくる表現です。親鸞が人間の生についての実感を踏まえながら、自ら出あうことのできた教えの意義を端的に示すものです。語句の内容を少し補いながら訳すと、次のようになります。

人間の知性ではおもいはかることができない、生きとし生けるものをどこまでも広く救済しようと誓った阿弥陀仏の本願は、渡ることが難しい荒海のような苦悩の中を生きる人を、苦しみを超えた世界へと渡らせる大きな船である。

 親鸞は人間の生を「難度海」(渡りがたい海)と表現しています。このことばは、どこまで行っても岸にたどり着けない果てしない海や、激しい嵐に襲われた荒海を想い起させます。確かに人は苦しみのただ中にある時、いつまでもこの苦しみは消えないのではないかと不安になります。また、あまりに激しい苦痛は、生きる力を奪いとってしまうことさえあるかもしれません。親鸞もまた様々な戦乱や飢饉に遭遇し、そのような出来事に翻弄されながら生きざるをえませんでした。人生を「難度海」と書きとどめた親鸞は、そのような事柄を身近に経験し自分の体験として重ねる中で、真摯に人間のあり方、自己の生き方を見つめていたのです。

 標記のことばの中で、そのような「難度海」を生きる私たちの「大船」となるのは「難思の弘誓」にほかならないと述べられています。つまり、人間のおもいはからいを超えて、あらゆる者を救済しようとはたらきつづける誓いこそ、「難度海」を生き抜く拠り所となるのだと親鸞は言うのです。「難度海」という現実の中で、それまで自分を支えていたあらゆるものが、いつでも覆される可能性の中に私たちは生きています。そのことを深く受けとめる時、「決して見捨てることなく必ず救いとる」と阿弥陀仏から願われている者が人間なのだという親鸞のことばは、切実な響きをもって迫ってくるように思われます。

 私たちは、昨年大きな災害をもたらした震災を目の当たりにしました。直接被害にあわれた方一人ひとりの苦悩や悲しみは、時間が経つに従い、更に大きく複雑になっています。また被災地から離れた私たちが、被害にあわれた方にどのように関わり寄りそうかという課題も、ますます問われています。そのような状況に生きている私たちに、標記のことばは人間として生きる立脚地を指し示そうとしているのではないでしょうか。

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