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きょうのことば

きょうのことば - [2012年03月]

心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。

「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。」
『蓮如上人御一代記聞書』(『真宗聖典』894頁)

 標記の言葉は、本願寺第八世である蓮如(1415-1499)の言行を集録した書物、『蓮如上人御一代記聞書(れんにょしょうにんごいちだいきききがき)』の中にある文章の一部です。この中で、蓮如は次のように言います。

心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり。
(自分はよく心得ていると思っている者は、実は心得てはいないのです。自分はまだよく心得ていないと思い、教えを聞く者は心得た者なのです。この愚かな自分が阿弥陀仏に助けられることが、なんと尊いことであるかと喜ぶのが心得たということなのです。ですから少しも自分は心得たと思うことがあってはなりません)

 蓮如は、「心得たと思う」人は、実は心得てはいないのだと言います。これは一体どういうことなのでしょうか。ここで言う「心得たと思う」人とは、もう十分に自分は「分かった」という思いの中に閉じこもってしまっている人のことを指します。この人は、自分が得た知識を頼みとし、謙虚に教えを聞く姿勢を失っているのです。ですから、蓮如は、自分の知識や能力を頼みとするのではなく、阿弥陀仏の智慧に教えられて、自分は十分に心得ていない愚かな身だと自覚すべきであるということを伝えようとしているのです。

 この蓮如の言葉は、私たちの学びの姿勢を問い直す力を持った言葉であると思います。
 私たちは様々な教えを学んでいく上で、「分かった」という体験を持つことがあります。しかし、その体験はもしかしたら単なる「思い込み」や「勘違い」であるかも知れません。更に言えば、問題なのは、それが「思い込み」や「勘違い」であると、なかなか自分自身では気づけないことなのです。だからこそ、謙虚な姿勢で教えを聞き、学び続けることが求められるのでしょう。

 今回、卒業を迎えた人は、大学における学業の集大成として、論文をまとめられました。まとめることによって、これまで明確でなかった事柄が十分に理解できたという人もいるでしょう。一方で、何が分かっていないのかがいよいよ明らかになったという人もいるでしょう。いずれにせよ、大学で取り組んだ課題が、一生の課題となる場合も少なくありません。自分はもう十分に心得たと慢心することく、自らの課題を探究していく姿勢が、未来を切り開くことにつながるかもしれません。そのように私たちの歩みを促す言葉として、標記の言葉を受け止めたいと思います。

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