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きょうのことば

きょうのことば - [2011年10月]

内という方がむしろ外になって、外と思っておる方が本当の内である。

「内という方がむしろ外になって、外と思っておる方が本当の内である。」
曽我量深「大谷大学のあゆみ」(『大谷大学百年史』(資料編)606頁)

 今月13日は、1901(明治34)年、大谷大学が近代の大学として出発をした、その記念の日です。冒頭の言葉は、1964(昭和39)年の開学記念式典で、当時学長であった曽我量深が述べたものです。
 大谷大学は、仏教、その中でも浄土真宗、すなわち、あらゆる存在が互いを真に尊重し合い、共に歩むことができる生き方を求める教えを、建学の精神にしています。曽我がここで言う「内」とは、本来はそうした生き方のことであり、また「外」とは、それにそむくあり方のことです。

 一般的に「内」や「外」というと、私たちはそれを、特定のグループに属するかどうかの問題ととらえます。そのような見方からすれば、建学の精神というものも、自分が特定の学校の「内」側にいると考えた者が「正しい」として従ってゆくようなもの、と思ってしまうかもしれません。しかし、曽我は、そのような意味で建学の精神をとらえ、自分はその内側にいると考えている者は、実はその精神にそむいているのだ、と言っているのです。
 何故ならば、大谷大学が建学の精神とする浄土真宗の教え、仏教の教えとは、そうした、自分を基準にしてあらゆるものを内と外とに分け、自らに都合の良い世界を作り出そうとする人間の心のあり方自体を、迷いや苦しみの根本と見るものだからです。そしてこの、自らに執着する心が破られ照らし出される経験は、それまで自分の外なるものと思い込んできた存在に出遇うことによって起るとされ、そこにこそ、互いを真に尊重し共に歩む生き方が始まるとされるのです。

 大谷大学が近代の大学として出発した時期は、実は、仏教を学ぶ人々の、自分こそ仏教の「内」側にいるという考えが、仏教の教えにそむく、自らに執着する考えに過ぎなかったことが明らかになった時期でした。そして、そのことは、彼らが、それまで仏教の学びの「外」なる存在としてきた、近代的な学問と出遇う中ではっきりとしてきたのです。
 そうした中で、初代学長である清沢満之をはじめとする人々は、人間を深く見つめる仏教の学と、人間探求・解放の旗を掲げ発展してきた近代的な学問とを広く学び合い、それまで「内」と「外」に分けられてきたそれぞれの学びの本当の意味を、確かめたいと考えたのでした。

 学びの対象を自らの関心の内に取り込み、利用しようとするあり方そのものが破られ照らされる出遇いの中にこそ、広やかな世界に眼が開かれてゆく、真の意味での学びが始まる。冒頭の言葉は、そのことを私たちに教えているのではないでしょうか。

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