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きょうのことば

きょうのことば - [2010年07月]

愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。

「愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。」
『ダンマパダ』(『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫19-20頁)

 これは『ダンマパダ』(真理のことば)第5章「愚かな人」のなかのことばです。これを含む全文は以下の文章です。

愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける。

 これは業(ごう)(カルマン)の法則を語ったものです。カルマンは、行為という意味のサンスクリットですが、中国において業と漢訳されました。行為には余力があり、次の行為の原因となります。行為は行為の結果である報いを生み、その報いが、さらにまた次の行為の原因となると言うのです。したがって、悪い行為をすれば、悪い結果が余力として残り、それが次の悪い行為の原因となる。思うようにならないことがあるのは、過去の自分が成した行為の報いに縛られているからであると理解されるのです。

 仏教では身口意(しんくい)の三業という考え方があります。身業は行為による業です。口業はことばによる業です。意業は思考による業です。人が行動するとき、それは何らかの意思に基づいています。何も考えずに行動する人はいないでしょう。そして、考えたことをことばにしたり、行動したりします。表題のことばである「愚かな者」とは、善悪の判断のつかない無知な者のことです。そういう人は、欲望や怒りに基づいて行動することがあります。そういう行為は悪い結果を残します。そしてその悪い結果が、また次の悪い行為の原因となっていくのです。

 インドの古い経典では、悪い行為の例として酒場に行くこと、善い行為の例としてお寺に行くことが挙げられています。酒場に行き、酒を飲んでいる間は、それを悪いことだとは思いません。まさに蜜をなめているように思うでしょう。しかし、欲望にまかせて飲み過ぎると、健康を害してしまったり、時には自分の感情をコントロールできずに他人に危害を加えるという結果を招くこともあります。酔いがさめると、その人にはただ苦しみしか残っていません。

 表題のことばは、目先の欲望に駆られて行動すること、蜜に酔いしれながら生きることを戒める言葉です。時にはこの言葉を思い起こし、自らの行動を見つめなおすことも大切なのではないでしょうか。

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