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きょうのことば

きょうのことば - [2010年06月]

我等の大迷は如来を知らざるにあり。

「我等の大迷は如来を知らざるにあり。」
清沢満之 (『清沢満之全集』第8巻 岩波書店 453頁)

 今日(こんにち)のような人間中心の経済活動を原因とする陸地と海洋と大気との破壊・汚染が進めば、今世紀末には私たち人類はまともに呼吸できる空気も水も失うだろうとも言われています。たとえばこのような終末論的な見方に対して、私たちはどのように立ち向かうことができるでしょうか。

 標記の言葉は、清沢満之(1863~1903)が命を終える年の日記に出ています。
「私たちの最大の迷いは如来を知らないことにある」という意味です。なぜ如来を知らないことが、私たちの最大の迷いの原因なのでしょうか。この言葉は次のように続きます。

如来を知れば始めて我等の分限(ぶんげん)あることを知る
乃(すなわ)ち我等の如意(にょい)なるものと、如意ならざるものとあるはこの分限内のものと分限外のものとあるが為也(ためなり)

(如来を知るときに、はじめて私たちは私たちに分限があることを知ります。
つまり私たちの思いのままになることと、思いのままにならないことがあるのは、この分限のなかのものと分限の外のものがあるためです。)

 「如来」とは、真理へ帰れと呼びかけるはたらきをいいます。このはたらきに気づくとき、私たちは私たちの分限があることを知るのです。ここにいう「分限」とは、「ある物事を行うことができる限界」という意味です。如来を知らないとき、私たちは、思い通りにしたいという人間中心の欲望を、無批判に肯定し、無限に増大させていきます。そのとき人間は、みずからが生み出した欲望のとりこになり、人間に与えられている分限の外へと踏みだし、人類の故郷である自然さえも欲望のためにそこなうことになるのです。

 清沢は、所有についても「私たちが所有するものは、実はすべて天の所有であって、私たちは一時的に保管と使用を任されているだけである」、「みずからの財産に執着するものは、如来の財物を私有化するのであって、その罪は世の盗賊の比ではない」、などと記しています。如来を知るとき、人間中心の立場がこのように厳しく問い直されるのです。

 人間の野放図な欲望と自然に対する暴力に歯止めをかけるためには、「人間としての分限がある」ことを思い知ることが不可欠です。しかし、そのことは人間を万物の王座に据えてきたような理性には不可能ではないでしょうか。その意味でも、「私たちの最大の迷いは如来を知らないことである」という言葉は、私たち人類の行く末を見つめなおすためのかけがえのない警句となります。

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