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きょうのことば

きょうのことば - [2010年05月]

罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし

「罪障功徳の体となる こおりとみずのごとくにて こおりおおきにみずおおし さわりおおきに徳おおし」
親鸞『高僧和讃』 (『真宗聖典』493頁)

 新年度が始まり、ひと月が経ちました。ようやく日々の生活のリズムに慣れ、本格的に腰を据えて、勉強やクラブなど大学生活に意欲を持って取り組んでいる人もたくさんいることでしょう。また、一方で自分が期待していた学問や思い描いていた学生生活と、現実とが異なっていて戸惑っている人、また新たな環境の中で悩みを抱えている人もいることでしょう。

上記の言葉は、親鸞が作成した和讃という形式の詩です。

「罪や障(さわ)りは、そのまま功徳のもとになるのです。その関係は氷と水のようであり、氷が多ければ多いほど、溶けたときの水は多くなります。同じように罪や障りが多ければ多いほど、後に得られる功徳も多いのです。」
 仏教では、「罪」とは煩悩によって作り出される悪の行為を言います。「障り」とはさとりの障害になるという意味です。ですから、罪・障りは功徳に反するもののように思われます。ところが、親鸞はそのような罪・障りが功徳のもとであると述べます。更には、その罪・障りが多ければ多いほど、それが転じたときに得られる功徳が多くなると言います。つまり、親鸞は罪・障りがあるからこそ、功徳が得られるということを述べているのです。

 私たちは生きていく中で、様々な困難にぶつかります。いままさに思い通りにならない現実にぶつかって苦悩している人もいることでしょう。また、時には思いがけず過ちを犯したり、失敗をしたりすることもあります。私たちは出来ることなら、失敗や苦悩することなく、楽しく生きていきたいと思います。しかし、失敗したり苦悩したりすることは、決していけないことや悪いことではありません。それらはやがて自分を育て、成長させていくという一面があるとも言えます。そのように捉えられたとき、失敗や苦悩に対する価値転換が生まれるのではないでしょうか。

 親鸞はまさに苦悩の人生を生きた人でした。誠実に生きて悩んだからこそ、自分自身をよく理解し、また他者の苦悩に共感し、あらゆる人々とともに生きることができた人です。親鸞の言葉は、私たちが今抱える自分の苦悩とどのように付き合っていくのか、生きるヒントを与えてくれるかもしれません。思い通りにならない現実に歩みが止まってしまったとき、この言葉から新たな眼差(まなざ)しを得て、再び歩み出して欲しいと思います。

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