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きょうのことば

きょうのことば - [2010年01月]

「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。

「「真」の言は偽に対し、仮に対するなり。」
親鸞『教行信証』信巻 (『真宗聖典』245頁)

 新しい年がはじまります。私たちは、これからの一年、多くの言葉に出会うでしょう。私たちは、溢れる情報や思想のなかで、何が真実なのか分らず溺れそうになって生きています。それらの中には、私たちの人生にさまざまな示唆を与えてくれるものもありますが、逆に私たちの見方を支配し、生き方を誘導し、かけがえのない生を見失わせるものも多くあります。

 標記の言葉は、親鸞(1173-1262)が「真の仏弟子」(善導)の「真」の字を解釈している文です。おおよそ次のような意味です。

「真(まこと)」という言葉は、「偽(いつわり)」に向き合い、「仮(かりそめ)」に向き合うということだ。

 「真」とは、人生においてなくてはならないことです。これを失えば生きていることが空しく過ぎてしまいます。「偽」とは、人生にあってはならないものです。これにとりこまれると人生が台無しになってしまいます。「仮」とは、「真」に出会うために立てられたものです。その意味で人生において必要なものです。しかしその「仮」に固執すると「真」を見失ってしまうかもしれません。

 「偽」が「偽」としてあるときは見抜くことは容易いでしょう。しかし問題は、「仮」を、「真」だと見あやまることです。そのとき人生に必要な「仮」が「偽」として作用するから怖いのです。例えば、善悪の判断は、私たち人間がともに生きていくうえではなくてはならないものです。しかし善悪が相対的なものであることを忘れ、善悪を絶対的なものとして、それによって人を選別したり排除したりするならば、「仮」としての善悪が「偽」としての善悪になってしまいます。

 「真」を明らかにするためには、「対する」という姿勢がぜひとも必要です。「対」とは、「前にあるものにまともに顔をむける」という意味です。「真」とは、決して自己完結的なあり方ではありません。みずからや他者における「偽」や「仮」なることから眼を背けずにきちんと向き合うことです。

 「偽に対し、仮に対す」、このような姿勢によって、はじめて私たちは「真」の言葉に出会っていけるのでしょう。

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