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きょうのことば

きょうのことば - [2009年04月]

譬えば月光の能く一切の優鉢羅花をして開敷鮮明ならしむるが如し。

「譬えば月光の能く一切の優鉢羅花をして開敷鮮明ならしむるが如し。」
『涅槃経』「梵行品」 (『大正大蔵経』第12巻 724頁)

 『涅槃経』の「アジャセ王の物語」では、罪人アジャセの苦悩と救いのプロセスが詳しく語られますが、そこにはまた、仏教における「慈悲」の性格が明確に示されています。この物語の舞台は、およそ二千五百年前の、王舎城という古代インドの都です。

 悪逆非道の王子アジャセは、自らの欲望を満たすために、父王のビンバサーラを殺害しました。後に過去の悪業を深く悔いるようになりますが、罪の意識から心を病み、やがて身体じゅうに皮膚病を生じ、激しい痛みに苦しめられます。そんなアジャセ王の苦悩を知ったブッダは、彼を救うために「月愛三昧(がつあいさんまい)」という瞑想に入ります。すると不思議なことに、ブッダから放たれた清涼な光が王をつつみ込むように照らすと、全身を覆っていた皮膚病はすっかり癒え、身体の痛みも消え去りました。

 ここでは、苦悩するアジャセを導くブッダの慈悲のはたらきが、「月愛三昧」という言葉で示されています。月愛三昧とは、月の光があらゆるものにやさしく降りそそぐように、あらゆる人びとにそそがれるブッダの慈悲をいいます。冒頭に掲げた文は、次のような文脈のなかに出てきます。

昼間の炎熱から解放されて、月光のふりそそぐ静寂な夜。清涼な月の光を浴びて、あらゆる青蓮の花が美しく開きます。—ちょうどその月の光のように、ブッダの深い瞑想(月愛三昧)から生じる慈悲の光は、あらゆる人びとを照らし、かれらに「善心」という花を咲かせるのです。

 仏教がわたしたちに伝えようとする最も大事なことがらは、ものごとの真実のありようを明らかにする「智慧」と、そして他者へのはたらきかけである「慈悲」です。「智慧」は日光の強いはたらきに譬えられ、一方、「慈悲」は、やさしく密やかに降りそそぐ、月光の控えめなはたらきに譬えられます。

 ブッダの慈悲は、奇跡をおこす超能力ではありません。ブッダの瞑想(月愛三昧)から生じた不思議な光明。それは、ただ黙ってアジャセ王の苦悩に寄りそい、王の心の深まりを静かに見まもり続けたブッダの慈悲のあり方を、象徴的に表現しています。慈悲とは、ちょうど月の光のように、苦悩する人が自ら「善心」(菩提心)を生じるまで、静かに密やかにはたらきかけるものです。「アジャセ王の物語」は、わたしたちもまたブッダの慈悲の光のなかで生きている、ということを教えてくれます。

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