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Home > 読むページ > きょうのことば > 仏道をならうというは、自己をならうなり。

きょうのことば

きょうのことば - [1999年12月]

仏道をならうというは、自己をならうなり。

「仏道をならうというは、自己をならうなり。」
道元『正法眼蔵(しょうぼうげんそう)』 「現成公案(げんじょうこうあん)」『正法眼蔵1』(岩波文庫)54頁

 道元(1200-1253)の主著といわれる『正法眼蔵』は、75篇の短い文書より構成されています。それらのなかでも、「現成公案」は、古来、道元の思想を最もよく表わすものとして、大切にされてきました。ここに挙げた言葉は、この「現成公案」から引用したものですが、仏道を修行してゆくうえで、重要な視点を示してくれています。
 その視点は、20世紀の宗教界に偉大な足跡を残したキリスト教神学者カール・バルト(Karl Barth 1886-1968)の立場と照らし合わせてみると、よく分かります。バルトは、多くの著作のなかで繰り返して神の徹底した超越性を強調しています。これはキリスト教神学全体に共通することですが、バルトは、その信仰の出発点を、あくまでも宇宙の創造主である神に求めています。しかし、それとは対照的に、仏教者である道元は「仏道をならうというは、自己をならうなり」と諭しています。つまり、宗教は超越者としての神の立場から出発するのではなく、現に様々な煩悩に縛られ苦しんでいる自分を見つめることから出発しなければならない、というのです。仏教的に表現すると、無始以来、迷いの世界に流転している自分に出会い、その姿に悲しむことから、宗教を求め始めるのです。
 もちろん、キリスト教も宗教である限り、現に苦悩する人間を問題としています。キリスト教では、人間は神に背き、神から疎外された存在[罪人(つみひと)]となったため、苦悩していると教えます。しかし、仏教では人間を真実の自己を見失ったもの、つまり本来の自己から疎外されたものと考え、本当の自己を回復することを目的としています。絶対的超越者である神に救いを求めるのではなく、本来の自己に目覚めることを仏教は教えているのです。
 道元は先に引用した言葉に続いて、「自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」と述べています。ここでいう「自己をわするる」とは、決して自分を喪失することではありません。欲望や自己中心的思考に振り回されている自分に目覚め、そのような自分から解放されることをいうのです。それは真の自己の回復を意味します。そして、そのような真の自己が回復されたとき、迷ってきたこの自分は、実は光輝く世界のなかに生きていたことに気付くのです。

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