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きょうのことば

きょうのことば - [1999年11月]

念仏には無義をもって義とす。

「念仏には無義をもって義とす。」
『歎異抄』『真宗聖典』630頁

 私たちは、自分の思うとおりにならなかったり、大きな失敗をすると「こんな人生に意味があるのか」とか「こんなつまらない自分に価値があるのか」と悩んでしまいます。この疑問は、人生や自分自身に対する根本的な疑問ですが、まじめに考えれば考えるほど答えのでない問いでもあります。この疑問には出口はないのでしょうか。
 表題に掲げた文章の「義」とは、意義とか意味ということですから、「念仏においては意味づけを超えているということが本当の意味である」ということを表しています。では、意味づけを超えているとはどのようなことを言うのでしょうか。
  親鸞は「義」を「はからい」と訓読しています。「はからい」とは、思い計ることですから、自分の人生の意味を考え、価値を計ることであると言っていいと思います。このような「はからい」は、一体どこからやってくるのでしょうか。生まれたばかりの赤子や幼い子どもが「人生の意味を問う」ということはありません。大人になって言葉による知識を多く持つようになった人が意味や価値を問題にするのでしょう。したがって「はからい」は、いわゆる大人の問題ということになりますが、だからといって知識を捨てればよいとか、赤子にもどればよい、ということでは解決できません。なぜなら、そんなことは本来できないことだからです。ここに、視点を180度変えなければならない必然性があります。
 もともと、私たち自身や人生そのものは言葉を知る以前から既に成り立っています。だから、私たち自身や人生そのものは意味や価値を問うことよりもずっと深く大きいものなのです。それゆえ「はからい」によっては本来捉えきれないものが、私たち自身や人生そのものなのです。このような「はからい」を超えるようにと呼びかけているのが親鸞の言う「念仏」なのです。
 『夜と霧』という著作で有名なフランクルというユダヤ人の精神科医がいました。彼は、ナチスによって強制収容所に入れられてしまいました。仲間がどんどん殺されていく極限状況の中で、大発見したのです。それは、自分が人生に対して意味を問うのではなしに、人生から自分が問われているのだということでした。この事を発見して、苦しい状況を生き延びたのです。後に彼はこの発見を「問いの観点の変更」と言っていますが、親鸞の教えと重なっているように思います。

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