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きょうのことば

きょうのことば - [1999年10月]

宗教は迷悶せる者に安慰をあたうるものなり。

「宗教は迷悶せる者に安慰をあたうるものなり。」
清沢 満之『清沢満之全集』第6巻38頁

 現代は、私たち人間が自らの歩みの方向性を見失った時代であると言えます。人間中心による豊かな社会の構築は、地球全体を環境破壊に追い込み、「学校崩壊」「人間の孤独」「生命の尊厳の喪失」など、社会が抱える問題は、さまざまな場面で噴出しています。
 このような状況の中、宗教も大きな役割を果たすことが期待されています。しかしそれに対して宗教は、本当に宗教としてのいのちを発揮していると言えるでしょうか。逆に宗教という名のもとに、多くの人々がさらに深刻な混乱に陥っているのが現状ではないでしょうか。それは多くの宗教が、人間の独善的なあり方を補完する形でしか機能してこなかったからでしょう。「幸福にしてください」「私の望みを叶えてください」、これはいくら敬虔な宗教的祈りに見えても、自己中心的に歩んできた人類のあり様と、何ら変わりがないのです。
 「宗教」という言葉は、現在、幅広く使われています。しかし「宗」・「教」は、 本来ブッダの教え(教)と、その教えが示す大切な要(宗)を意味する仏教の大事な言葉としてありました。そのブッダももとは、王子としての豊かな生活を謳歌していました。ところが老・病・死という事実に直面することを通してそのような生活に疑問を抱き、真に人間が歩むべき道を求めて出家したのです。

欲望の中に患(わずら)いを見て、世俗生活の放棄を安らかさと見て、
努めいそしむためにわたしはいこうとするのです。(スッタニパータ)
出家に臨むブッダの言葉です。豊かさを追い求めて築き上がった現代社会は、まさに人間の欲望が形を取って出来上がった社会です。今人間は、その社会の中に居ながら、抱えきれない「患い」に悶え苦しんでいるのではないでしょうか。
 表題の言葉は、明治の仏教者清沢満之のものです。「迷悶せる者」とは、豊かな社会の中に本来あるべき姿を見失い、悶え苦しむ現代人を言いあてています。私たちは、日々、欲望に欲望を重ねて生きています。そのような私たちに清沢は、「自家の迷悶を開覚せざるべからず」とも言います。つまり、欲望に迷悶する自分であることを自覚しなくてはならないと言うのです。
  欲望に溺れず、人間としての道を回復せよと教えたのがブッダです。そして清沢は、迷悶者であることを自覚し、ブッダの教えを聞いていくところに、本当の安慰がおとずれるのだと言います。文明が行き先を見失っている現代にあって、迷悶の原因をしっかりと見定め、本当に大切なものを求めていく、そこに宗教が真に意味あるものとして、その生命を回復していくのでしょう。

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