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きょうのことば

きょうのことば - [1999年08月]

智慧の完成は無執着をしるしとしている。

「智慧の完成は無執着をしるしとしている。」
『八千頌般若経』 (はっせんじゅはんにゃきょう)『大乗仏典』第3巻(中央公論社)206頁

 私たちはつい夢中になってやり過ぎてしまい、後で反省することがよくあります。そんな時、自分が知らない間に夢中になって求めたり、拒否したり、護ろうとしていたものに執(とら)われていたこと、こだわっていたことに気づかされます。それでは、このような執われはどこから来るのでしょうか。
 私たちは、小さいときから、経験を通して「私」「自分」という意識を作り上げながら、自分にとって心地よい快適なものを好きになり、そうでないものを嫌いになっていきます。また、親や周りの人たちから教えられたり、学校などで学んでいくうちに社会の常識や価値観を身につけていきます。そうして徐々に自分にとって大切なものが形作られていきます。その大切なものとは、まずは「私」「自分」でしょうし、さらには「家族」「友だち」、車などの欲しいもの、主義主張であったりします。
 それほど自分にとって大切なものという自覚がないことがらに対しても、私たちはさまざまな執われを持っているようです。社会の常識のようになっていることがらは、自分だけが特別ではないため、それが執われであることになかなか気づきません。たとえば、性別についてのことです。私たちの社会にはまだまだ強く「男らしさ」「女らしさ」という固定した観念があります。男女の身体的な違いはあるとしても、その時の社会に都合の良い役割が考えられ、それが「らしさ」として固定されていきます。
 このような社会全体が共有するような執われは、時には偏見や差別を生み出します。しかし、その社会の価値観の中にいるかぎり、そのような「らしさ」が単なる執われにすぎないことになかなか気づきません。執われに気づくには、私たち社会の持つ価値観を別な価値観で照らしてみることが効果的でしょう。例えば、人間としての尊厳、基本的人権などの価値観は、「男らしさ」「女らしさ」を検証するものとして有効なものです。
 仏教は、このような執われからの解放を、すべてにわたって根本的に行おうとします。仏教の覚り、すなわち知恵の完成は、すべての執われ(執着)からの解放を実現したあり方です。表題にあげたことばはそのことを示しています。この世界の現象や存在はすべて無常なものであるのに、私たちは「ことば」によってそれを捉えることで、さまざまな本性や属性をそれに付加して、その付加したものに執われています。仏教はそのことを指摘することで、私たちの執われが根拠のないものであることに気づかせようとするのです。

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