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きょうのことば

きょうのことば - [1999年01月]

信は男につれそう妻である。智慧が彼を教えさとす。

「信は男につれそう妻である。智慧が彼を教えさとす。」
『ウダーナヴァルガ』『真理のことば』(岩波文庫)192頁

 初期経典の一つ『ウダーナヴァルガ』の第10章には、信と智慧とを対にして述べる詩が多く収められています。それらの詩は、信と智慧の両方を兼ね備えるべきことをわれわれに教えてくれます。
 経典では「信」という言葉は、信頼や信仰をはじめとして色々な意味に用いられますが、ここでは夫につれそう妻の「まごころ」にたとえられています。 出家・在家を問わず、人として生きていく上で「まこと」や「まごころ」が必要とされるのは当然で自明なことのようにも思われます。それでは、もう一方の智慧はなぜ必要とされるのでしょうか。
 『ウダーナヴァルガ』のこの章には、信と智慧とを一対にして述べた上記のような詩の外に、信と他の言葉を一対にして述べた詩が幾つかみられます。それらの言葉はどうやら「智慧」のはたらきを表現したものであるように思われます。それらは、概して「執着しないこと」を意味する言葉です。つまり智慧は「ものごとに執着せずとらわれない心」をもたらすものと考えられているのです。そうするとこの章は「まこと」や「まごころ」とともに「執着しない心」の必要なことを教えているものと解釈できます。
 表題に掲げた詩では、信は夫につれそう妻の「まごころ」にたとえられ、智慧は彼を教えさとすものとされています。ここでいう信は、「まこと」や「まごころ」という他の人への誠実な思いです。その限りではその思いに問題はありません。しかし、まちがった思いや考えを教えさとし執着を離れさせる智慧がないとき、子供に向けられた母親のひたすらな愛情や、教祖に寄せられた弟子のいちずな信仰などに見られるように、「まこと」や「まごころ」はおうおうにして暴走します。それは外見が美しく「良いもの」と思われるだけよけいに危険なものでもあります。その良いものが自分の内にあるものとなれば、われわれはなおさらそれに執着します。それゆえ経典は、人を教えさとして執着を離れさせ、「まこと」や「まごころ」を正しい方向に向かわせる智慧が必要だと説いているのです。

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