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きょうのことば

きょうのことば - [1998年10月]

宗教は人心をして其の根蔕を自覚せしむるものなり。

「宗教は人心をして其の根蔕を自覚せしむるものなり。」
清沢満之『清沢満之全集』第6巻479頁

 10月13日は、大谷大学の開学記念日です。今から97年前の1901(明治34)年のこの日に、大谷大学は再出発しました。そのときに初代学長であった清沢満之は、

本学は他の学校とは異なりまして、宗教学校なること、
殊(こと)に仏教の中に於いて、浄土真宗の学場であります。
と、宣言しました。大谷大学は他の学校とは違って、宗教を学ぶことを目的とするのだ、と言い切ったのです。
 ところで、「宗教を学ぶ」と聞くと、神や仏について勉強をすることのように私たちは思うのではないでしょうか。そして、「そういうことに対しては、私はあまり関心がもてないなぁ」と、思ってしまう人もいるに違いありません。けれども、宗教を学ぶことについて清沢は、「宗教は人心をして其の根蔕を自覚せしむるものなり。」と述べています。すなわち、宗教を学ぶとは、学ぶその人自身の存在の根蔕(ねもと)を自覚せしめられていくことなのだ、と述べているのです。ですから、大谷大学において宗教を学ぶとは、人間を学び自己を明らかにしていく「人間学」に他ならないのです。よくよく考えてみるなら、人間が本当にしなくてはならない学びとは、自己が明らかになっていくような学びなのではないでしょうか。
 それでは、人間存在の根蔕について学ぶとはどのようなことなのでしょうか。そのことについて、清沢は、
吾人の従来する所如何。 吾人の趣向する所如何。 吾人の価値は如何。
という問題を掲げています。すなわち、私たちはどこからやってきたのか、私たちはどこへゆくのか、私たちの価値とはどのようなものなのか、と。
 確かにこれらのことは、私たちも何かしら気になっている問題です。しかし、なかなか答えが見つかりません。だから、忘れ去ろうとしているような問題なのかもしれません。けれども、もし自己存在の根本に関わるこのような問題が明らかでないなら、自分を知らないまま人生を送っているということになります。それではあまりにも残念です。だからこそ、このような根本問題を手掛かりとして、自己存在の根蔕を問い、自己を明らかにしてほしいと、清沢は呼びかけているのです。
 自己存在の根蔕が明らかになっていくような学び、そのことをじっくりと腰を落ち着けてやってほしい、そう願って大学は再出発したのです。

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