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きょうのことば

きょうのことば - [1998年08月]

もし道理に箇らば、これ真宗なり。

「もし道理に箇らば、これ真宗なり。」
親鸞『教行信証』行巻『真宗聖典』179頁

 かつて「人間性喪失」という言葉が「人間らしさ」を失って生きていかなくてはならない状況をよく言い当てていました。最近、ある作家が「人間が壊れている」と書いていました。そこには、自明(じめい)と思っていた「人間らしさ」さえわからなくなったという実感があります。私たちは「人間らしさ」を取り戻そうと努力していますが、幸せに生きたい、まじめに生きたいという思いやはからいによって「人間らしさ」をどれほど探しても見つからないのではないでしょうか。
 表題にあげた言葉は、もとは法照(ほっしょう)の「若箇道理是真宗」という句です。普通、「若箇」を「かくのごとき」と訓み、「このような道理、これが真宗である」という意味であると思われます。ところが、親鸞は、あえて「箇」を「よる」と訓み、「もし道理によって生きていくならば、それこそ真宗である」と、いう趣旨で読んでいます。道理によって生きていくこと以外に、真宗ということはどこにもないというのです。
  言い換えれば、道理によらない生き方は、いかに幸せにみえようとも、正しくみえようとも真宗にはなりえないということです。真宗とは、私たちが道理によって生きていくということをあらわしているのです。
 普通、道理は「正しい論理」というような意味で使われることが少なくありません。しかし、仏教でいう道理はそういう意味ではありません。思いによっては動かすことのできない厳粛な「みちすじ」のことをいいます。それによるか、よらないかで、真宗を得るか、得ないかが決定するような道理です。
 「人間が壊れた」ということも、幸せになりたい、正しく生きたいという思いによって描いていた「人間らしさ」が、夢・幻でしかなかっただけのことです。壊れてしまえば、壊れてしまうことが「道理」なのであり、その事実に立って生きることが「真宗」であります。「道理による」ところには、人間についての甘い夢はありません。どのように壊れても絶望することのない「真宗」が与えられるのです。
 親鸞は、真宗をこのように確かめられました。真宗を、一宗派の名前だと思っている人はどきっとさせられることばではないでしょうか。            

*法照(ほっしょう)[8世紀頃]:中国・唐の仏教者。念仏を音曲によせてひろめ、「後善導(ごぜんどう)」と呼ばれた。

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