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きょうのことば

きょうのことば - [1998年03月]

三界は安きこと無しなお火宅の如し。

「三界は安きこと無しなお火宅の如し。」
『法華経』「譬喩品(ひゆぼん)」『法華経 上』(岩波文庫)198頁

 精神病理学では、「不安」と「恐怖」は明確に区別されます。「恐怖」とは「はっきりした外的対象に対する怖れの感情」をいいます。つまり、なにが恐いのか、その対象がはっきりと具体的に知られる場合をいいます。怖れの対象が高い場所であったり(高所恐怖)、人間であったり(対人恐怖)、あるいは特定の動物(たとえば蛇)であったりします。蛇が恐い人にとって、怖れの対象である蛇を取り除けば、恐怖の感情は消滅し、問題は解決します。しかし、「不安」はさらにやっかいな感情です。それは「漠然とした未分化な怖れの感情」であり、「内的矛盾から発する、対象のない情緒的混乱」であるとされます。つまり、漠然とした怖れの感情はあるのですが、いったい何が恐いのかがはっきり分からない場合であり、対象のない恐怖をいいます。
 「不安」はどこから生まれてくるのでしょうか。『仏説無量寿経』には人の生死について、「人は、世間の愛欲の中に在りて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る」と説かれています。私たちは常日頃、死の問題から目をそむけ、死を忘れて生活しています。しかし、死の方は人間を忘れずに必ずやってきます。私たちはいつか必ず死に直面しなければなりません。そのような死に対する潜在的な怖れから、私たちの日常的な不安の気分が生み出されてくるのではないでしょうか。
 『法華経』には「三界は安きこと無し、なお火宅の如し」とあります。

私たちの迷いの人生(三界)には不安が満ち満ちており、安らぎは見出しがたい。それはちょうど激しい炎に包まれ、燃えさかる家のように、はなはだもろく危険な場所である。

  三界(火宅)とは迷い、不安、苦しみの人生のことであり、それは私たちの自分勝手な欲望や執われという煩悩(火)によって生み出されます。経には、火宅の中に居りながら、火の恐さにも、火宅の危うさにも一向に気づくことなく、遊び戯れているのが私たちの日常的な姿である、と説かれています。
  業縁にしたがって訪れる死を、ありのままに受け入れることができず、自分の勝手な欲望や執(とら)われによって、それを忌み嫌い、無視し、むやみと生に愛着しようとします。そこから不安が生まれてくるのでしょう。私たちは自分の不安や死の問題から目をそむけたり、無視しようとするのではなく、むしろそれと真正面から向かい合うことによって、生きることの大切さに触れ直すことができるのではないでしょうか。

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