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きょうのことば

きょうのことば - [1997年11月]

願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ。

「願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ。」
親鸞 『教行信証』行巻『真宗聖典』184頁

 一度しかない人生、後悔はしたくない。こんな気持ちは誰の中にもあるのではないでしょうか。だから、何らかの理想や目標をもって生きていこうとするのが私たちです。目標に向かって物事がうまく進んでいるあいだは、問題を感ずることなく生きていけるかもしれません。しかし思い通りになることの方が少ないのが実際です。病気や事故、社会情勢の変化など、思いもかけないことが起こってくるたびに、「こんなはずではなかった」と言って苦しまなければなりません。そして、他の人と比べて自分の人生を情けなく思ったり、もう生きていく望みがないと言うことにもなります。
 自分を大切にしたいと思っているのに、どうしてそうなってしまうのでしょうか。思わぬことが起こってくるのが人生であるにもかかわらず、自分だけは大丈夫だと思い込んでいることに原因があるようです。そんな私たちに対して、すべての物事は必ず移り変わるということを、仏教は無常と教えています。その事実に目を覚まさない限り、自分の人生がいつまでも続くように夢見て、結局は空しく過ぎ去ってしまうと呼びかけているのです。

ああ夢幻にして真にあらず、寿、夭(よう)にして保ちがたし。呼吸の頃に、すなわちこれ来生なり。 一たび人身を失いつれば、万劫にも復せず。この時悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまわん。 願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽すことなかれ。
(ああ、人の一生は夢・幻であって、まことではない。いのちはもろくて、いつまでも保つことはできない。ひと呼吸のあいだに終えていくのがいのちである。いったんこの身を失えば、どれほど長い時間をかけても、もとにもどることはできない。今ここにおいて悟らなければ、仏であってもどうすることもできない。願わくば無常という事実を深く心にとどめて、あとに悔いをのこすような生き方だけはしないでほしい。)
 生まれた者は必ず老い、病み、死にます。これは誰もまぬがれることのできないいのちの事実です。日頃は、その老病死をなるだけ見ないようにしがちです。しかし、見ないようにしていても、老病死が消えるわけではありません。その意味で、好きだとか嫌いだとかいう人間の思いを超えたいのちの自然のいとなみです。大事なのは、老病死を憎んだり、遠ざけることではありません。老病死ある人生をどう生きるか、問題を抱えている人生をどう生きるかということです。
 自分にとって楽しいことばかりでなくても、問題をかかえていても、その事実以外に自分の人生はどこにもありません。自分に都合のよい未来がやってくることを待っている間に、大切な今は過ぎ去ってしまいます。必ず死ぬ限りあるいのちであるからこそ、何物にも代えられないのです。無常なるいのちの事実を深く念ぜよとは、今生きて在ることのかけがえのなさに目覚めよ、との呼びかけなのです。いのちのかけがえのなさに目覚めるとき、次々と問題が起こってくる人生を生き抜いていく勇気が湧いてくるのではないでしょうか。

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