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きょうのことば

きょうのことば - [1997年10月]

仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。

「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。」
『蓮如上人御一代記聞書』『真宗聖典』874頁

 釈尊が出家をされたのは、老人と病人と死人と沙門を見たことがきっかけであったと伝えられています。それは、たんにそういう人がいると知ったのではなくて、釈尊自身も病むものであり、老いるものであり、死ぬものであると実感されたからです。なに不自由のない王子としての生活、しかし、それは人間誰しもが直面する老・病・死の事実を見ないことによって成り立っていたのです。そこに何か言いしれぬ不安や空しさを、釈尊は感じておられたのでしょう。その不安と空しさを解決した沙門を、釈尊は見られたのです。その沙門はボロを身にまとい、無一物ではありましたが、はるか遠くの一点を見据えながら堂々と歩いていました。その沙門の風格に、老・病・死の不安を越えることこそ人間の根源的な課題であると教えられて、釈尊はその道を求めて出家されたのです。
 蓮如は、「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事は、いそげいそげ」と、折にふれて述べたと伝えられています。世間的な豊かさや、幸せというものを求めるのではなく、人間の根源的な課題を解く仏教の教えによく聞け。それには一刻の猶予もならないと、蓮如は教えているのです。この言葉には、釈尊の出家と共通する気持ちが込められています。まず何をおいても仏法を聞くようにという勧めから、私たちは日頃の忙しさに紛れて忘れてしまっている大切な出発点を教えられます。たとえ、どれほど豊かで華やかな生活が実現したとしても、それだけでは満足できないものを人間は持っているからです。
 その意味でいえば不安や空しさを感じるということは、とても大切なことなのです。不安や空しさは、私が事実を事実として受け止めていない、私の生活の基本のところに嘘があることを教えてくれているからです。足下の事実を忘れて見果てぬ夢を貪っていきたいのが、人間の偽らざる心情でしょう。しかし、私たちが生きている現実は、そのような私の思いにはかかわりなく進んでゆきます。
 蓮如は、『御文』のなかで、

それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものは必ず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり。さればただいたずらにあかし、いたずらにくらして年月をおくるばかりなり。これまことになげきてもなおかなしむべし。このゆえに、上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも、うけがたきは人身、あいがたきは仏法なり。
と述べ、「諸行無常」という仏教の教えは、誰ものがれることができないと教えています。
 どのような生き方をするか、自分の生活をどのように豊かにするかということが、私たちの日常の問題ではありますが、それ以前に、老・病・死の身として生まれてきたという私自身の事実があります。釈尊の教えは、徹底的に事実を事実として見つめることによって、人間を不安と恐れから解放する教えです。それは、「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う」と言われるように、これからのこと、年老いてからのこと、明日のことではなくて、私たちが今ただちに目覚めるべきことなのです。

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