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きょうのことば

きょうのことば - [1997年09月]

観とは智慧のことである。

「観とは智慧のことである。」
智顗(ちぎ)『摩訶止観<まかしかん>』『大正大蔵経』第46巻22頁

 文芸評論家の小林秀雄氏は、『私の人生観』という講演のなかで、「人生観、人生観と 解(わ)かり切ったように言っているが、本当はどういう意味合いの言葉なのだろうか」と述べ、人生観の「観」という語に注目しています。彼によれば、宮本武蔵は見るということについて、「観」 と「見」の2つの見方があるといい、通常のはたらきを持つ「見の目」と、心眼ともいうべき「観の目」を区別していたといいます。
 「観」も「見」もともに“みる”と読みます。一般に、「見」とは、ちょっと目に入る、なんとなく見えるの意味であり、表面的で常識的な見方をいいます。それに対して、「観」は念を入れてよく見る、明らかに見るという意味であり、仏教では、ものごとの表面的な有様を突き抜けて、その本質を見透(みとお)す智慧のはたらきを「観」といいます。
  仏教者は「観の目」をもって何を洞察するのでしょうか。人間のどのような本質が「観の目」によって見透されるのでしょうか。『法華経』には、常不軽(じょうふぎょう)[常に軽んじない]という名前をもつ菩薩が登場します。名前のごとく、決して他人を軽視したり軽蔑したりすることがありません。この菩薩は会う人ごとに、「わたしはあなたを心から尊敬します。なぜなら、あなたはいつかきっと仏になる御方(おかた)だから」といって合掌し、礼拝(らいはい)をくりかえしました。ある人びとはそのような行為をかえって不快に思い、杖でなぐり、石を投げつけようとします。それでもこの菩薩は、迫害を受けながらも、人びとに対する礼拝の行為をやめなかったといいます。常不軽菩薩は、あらゆる人びとの心の奥底に、人間の理想(仏)を達成する因となる大切なものが隠されてあることを、洞察していたのです。
  私たちはとかく「見の目」によって、人間の外面的な姿を見て、自他を評価しがちです。誇るべきは人の社会的地位であり、生まれであり、財産であり、持ち物であり、あるいは好ましい容姿であったりします。それによって自他を比較し、ある時には優越感にひたり、またある時には劣等感にさいなまれます。優越感と劣等感のはざまを振り子のように揺れ動くのが、私たちの日常的な意識のありようでしょう。一方、人間の外面的な諸条件を超えて、人の心の奥底に隠されてある宝物を見透すのが「観の目」であり、智慧のはたらきです。その宝物は、私たちにとって遠い遙かなものであり、それを見つめようとしても微(かす)かにしか感じられず、ほのかな光のようにしか窺(うかが)えないものであるかも知れません。しかし、それこそが私たちの孤独な心の支えともなり、また、人間を尊敬し、信頼する拠(よ)り所ともなるものに違いありません。

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