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きょうのことば

きょうのことば - [1997年05月]

如来とは能所の転換を行わしめるもの。

「如来とは能所の転換を行わしめるもの。」
佐々木 月樵(ささき げっしょう )『大谷大学樹立の精神』(大谷大学刊)36頁

 私たちは、「如来」とか「ほとけ」というと、自分の願いをかなえてくれるもの、困ったときに頼るものと思っているのではないでしょうか。この考えをそのままにして仏教を学ぼうとするとき、それはとてもむずかしいもの、何かわけの分からないものに見えるに違いありません。先日、ある授業で学生に感想を書いてもらったところ、「仏教はむずかしい」とか「仏教は分からない」という意見が圧倒的でした。これは、学生に限らず世間一般でもよく耳にする言葉です。
 表題に掲げた一文は、私たちが仏教と接するとき、普通は気付かないような根本的な問題をきわめて簡潔に表現しています。文中の「能所」とは、ある行為について、する側(能)とされる側(所)を表しています。だから、普通我々の方から仏教に向かって問いを投げかけ、その問いに対して期待通りの答えが得られないので、「仏教は分からない」と言っていたことがひっくり返って、そう言っているあなた自身はそもそも何者か、と問い直されるような転換を起こさせるものが「如来」であるという意味になります。それ故、「如来」とは、困ったときに頼るものでもなく、それはどのような存在であるのかと知識によって追い求めるべきものでもないのです。
 私たちが「仏教は分からない」と言っているとき、言っている側の自分自身は充分に確かなものであり、分かり切ったものであり、自分のことだから自分が一番よく分かっていると思っています。そして、そうした分かり方で「仏教は分からない」と言っているのです。しかし、自分自身とは本当に分かり切ったものなのでしょうか。自分は、一体何時から自分なのか、自分はどこからきてどこへ行こうとしているのか、自分は自分であると言うがどちらの自分が本当の自分なのか、自分は生まれてきたと言うが本当にそう言い切れるか。そんなことを一つ一つ丹念に尋ねていくと、私たちは自分自身のことを本当に知っていると言い切れるでしょうか。私たちは「仏教は分からない」とか「仏教はむずかしい」と言いますが、本当に分からないのは自分自身の方なのではないのでしょうか。
  私たちが、「如来」や「仏教」に対して、自分の方が確かであると思ってそれらに向かっている間は、仏教は何かわけの分からない不確かなものに見えるでしょう。しかし、両者の関係が逆転して、自分自身の不確かさに気付いたとき初めて本当に確かなはたらきとしての如来=仏教との出会いがあるのです。本当に不確かなもの、それは自分自身を忘れて仏教を云々している私たちの方なのです。

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