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Home > 読むページ > きょうのことば > 神殿の空虚こそが、またその暗闇こそが、神殿を聖なる場とする

きょうのことば

きょうのことば - [2008年09月]

神殿の空虚こそが、またその暗闇こそが、神殿を聖なる場とする

「神殿の空虚こそが、またその暗闇こそが、神殿を聖なる場とする」
ジャン=リュック・ナンシー(『神的な様々の場』松籟社p.51)

 フランスの哲学者J=L・ナンシー(1940~)は、西洋の思想や宗教を吟味しながら、私と他者という関係や、その関係が積み重なってつくられている社会について思索を進めています。

 上記のことばはどのように理解されるでしょうか。まず、「神殿」という語を見れば、そこには何らかの神さまが祀られていると考えるのが普通でしょう。しかし神殿は空っぽで何もなく、また真っ暗で何も見えないとナンシーはいいます。また同時に、神殿が空っぽで真っ暗だからこそ神殿は聖なる場所になる、とも述べています。

 ナンシーが「神殿の空虚」というとき、空っぽの神殿の中にいるはずの神には名前はついておらず、姿かたちもないということを意味しています。そもそも、何かに名前をつけレッテルを貼るということには、その何かを自分の考えでとらえ、自分の理解の中に収め取るという意味が含まれています。たとえば、「あの人はイヤな人だ」というレッテルを貼ることは、その人が持っているはずの様々な可能性を一面的な評価に限定して、その評価でもって自分がその人を所有してしまうことを意味します。

 ナンシーは、そのような自分の限られた理解に引きつけた神が祀られている神殿よりも、そこになにも見ることのできない空っぽの神殿の方がより神聖であると考えます。なぜなら、もし「私の考えている神の姿が、唯一正しいものだ」というレッテルを貼りその神を神殿に祀るとするならば、神は自分の理解の内部という狭いところに限定的に存在するような、小さなものになってしまうからです。神も、他者も、自分とは無限に異なるものであるという点では共通しており、その様な無限性を自分の都合に合わせていたずらに小さくしてしまうことをナンシーは批判しているのです。

 テレビや新聞などで伝えられてくる世界情勢に目を向けると、「私の神こそが正しい」、「神とはこのような力を持つものだ」という主張が飛び交い、その正しさを信じるあまりに他の考え方を根絶やしにしようとする暴力的な争いが絶えないことに気づきます。宗教間の争いとは、ある意味において、「私の考えが一番正しい」という主張のぶつかり合いであるということもできるでしょう。

  ナンシーがいう「空っぽの神殿」とは、無限の可能性をもった神を、無限の可能性のままに祀る神殿のことです。神殿に神がいないからこそ神の偉大さを感じ、また、他者をすぐには理解できないからこそ他者の無限の可能性を感じるということ、このようなところから他者との共生や多文化・多宗教の共生は始まるのかもしれません。

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