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きょうのことば

きょうのことば - [2007年09月]

悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。

「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。」
金子大栄(『歎異抄領解(たんにしょうりょうげ)』p.53)

 これは、金子大栄(1881-1976)著『歎異抄領解』にある言葉です。金子は『歎異抄領解』において、『歎異抄』に記された親鸞の言葉を現代語に訳した上で、自らの受け止めを述べています。それは、通常の解説という形ではなく、それ自体味わい深い詩的章句を連ね変奏曲を奏でるように語られていきます。冒頭の言葉は、『歎異抄』後序(ごじょ)に記された「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(しんらんいちにん)がためなりけり。されば、そくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『真宗聖典』p.640)という親鸞の言葉について書き連ねられた章句の一部です。

 現代人は涙を流さなくなったとも言われます。心のアンテナの感度を鈍らせることでしか心の平衡を保ちえないほどに、悲しむべき人間の姿を突きつける出来事が増えていることもあるでしょう。あるいは、忙しい毎日のなかで、押し寄せてくる問題を処理していくには、悲しみの涙は無用だという気分が拡がっているからかもしれません。たしかに悲しむことは、悲しみの原因となった事態を元に戻してはくれませんし、その埋め合わせにもならないでしょう。

 しかし、悲しみを通してしか、涙となってわたしたちの身体を貫かずにはおかない悲しみの根に向き合い、それを知ることはできないのではないでしょうか。悲しみの根とは、愛着や憎悪、暴力や差別を惹き起こす人間の弱さ、脆(もろ)さの事実です。涙は、そうした人間の事実へと私たちの眼差しを向け、悲しみを通して願われていることは何かと、私たちに問いかけてくるのではないでしょうか。ともに涙し、その涙からの問いかけに応答しようとすることで、はじめて憎悪や暴力の連鎖を断ち切る力が与えられるのです。

 金子は、親鸞の言葉から「すべてのものを平等に救い取りたいという阿弥陀(あみだ)の願い」を私たち人間の悲しみの底に聴き取り、それを「悲しみを知る悲しみ」、「涙にそそがれる涙」と表現しました。親鸞そして唯円は、自らと自らの生きた時代の苦悩に向き合うことで、自らの悲しみの底にはたらく阿弥陀の大いなる悲しみとしての願いに触れ、その生を生き抜いていきました。それは、悲しみを抱き悲しみに問われ続けることこそが、「共なる世界」を願う生活へと歩みだすことなのだと、わたしたちに示しているのではないでしょうか。

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