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きょうのことば

きょうのことば - [2007年08月]

貪愛の心 常によく善心を汚し、瞋憎の心 常によく法財を焼く。

「貪愛の心 常によく善心を汚し、瞋憎の心 常によく法財を焼く。」
親鸞『教行信証』信巻(『真宗聖典』p.228)

 この言葉は親鸞の著『教行信証』「信巻(しんのまき)」に記されている言葉です。親鸞はここで私たちの生き方にある問題を「貪愛の心」「瞋憎の心」という視点から確かめています。

 「貪愛の心」とは自分の都合に合うものを際限なく貪(むさぼ)り求めようとする心であり、この心が「善心を汚す」と親鸞は言います。「善心」とは、私たち一人ひとりのうちにある本当に自分らしく生きたいという思いです。意識するとしないとにかかわらず、私たちの誰もがその思いを持っています。この点に仏教の人間のとらえ方があります。ところがその思いを覆い隠し見失わせるものが、ほかならぬ自らの「貪愛の心」であると親鸞は言うのです。

 また、「瞋憎の心」とは自分の都合に合わないものに対して瞋(いか)りや憎しみの感情を抱(いだ)いていくことを言います。その心が「法財を焼く」と親鸞は言います。「法財」とは自分という存在を表す言葉です。自分という存在は他の人との関わりを抜きには生きていません。しかし「瞋憎の心」を抱くことが原因となって、人間にとって何よりも大切な私と他の人々との関わりが破壊され、お互いがお互いを傷つけ合っていくことにもなっていく。親鸞はこのように見定めています。

 私たちは、自分が自分らしく生きることと、他の人と共に関わりながら生きていくということとが、矛盾なく成立するという事実になかなか気付けません。自分らしい生き方ができないのは周りの人のせいであるとさえ考えてしまいます。そのために自分の都合に合ったものや自分にとって好ましいものに愛着や貪りの思いを持ち、一方で自分の都合に合わないものには瞋りや憎しみの思いをもって、そのためにかえって自分自身を見失っていくのです。
 本当に自分らしく生きるということは、都合のよいものだけを求める生き方からは決して開かれてきません。自分の内には「貪愛の心」「瞋憎の心」がいつでもわき起こっています。その事実から目をそらさず、それが何によって起こるのか率直に見つめれば、そこに都合のよいものだけを追い求める自分の生き方が浮かび上がってきます。その生き方をひるがえしていこうとする時に、初めて自分らしく生きる道が開かれてくるのです。この点に、親鸞が冒頭の言葉で人間という存在を確かめていった意味があるのではないでしょうか。

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