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きょうのことば

きょうのことば - [2007年07月]

仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。

「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。」
『大智度論(だいちどろん)』(『大正大蔵経』第25巻 p.63)

 この言葉は、大乗仏教の大成者であるインドの龍樹( りゅうじゅ) が、『大智度論』の中で述べている言葉です。

仏法という大いなる海は、「信」が無くては入ることができず、「智慧」が無くては渡ることができない。
 仏教には、様々な地域の中で長い歴史を通じて磨き上げられてきた英知が籠(こ)められており、あたかも汲(く) めども尽きせぬ大海のようなものです。そのような仏教の世界にはどのようにすれば触れることができるのでしょうか。手当たり次第に学んでいけばいいのでしょうか。「学ぶ」というとき、私たちはひたすらに知識を集積していくことをイメージします。

 しかし、龍樹は、いくら知識を積み重ねようとも、「信が無くてはならない」と言います。「信」とは、訳も分からないままに闇雲に信じることではありません。仏教は、そのような凝り固まった先入観を持つことを、むしろ厳しく戒めています。
 ところが、実際にはその仏教に対してさえ様々な思い込みや先入観に支配されています。「古くさい」「分かりにくい」と予め信じ込んでおく方が便利だからです。そして、そのような先入観に支配されていることさえ忘れてしまっています。

 私達の日常も多くの先入観に支配されています。日常には、つい見過ごしてしまっていることも多く、また受け容れ難いことも次々と起こってきます。朝に陽が昇っても特段何の感慨も湧かないでしょうし、事故に遭うようなことがあれば何故こんな目に遭わねばならないのかと腹立たしく思うかも知れません。しかし、どのような態度を取ろうとも、いずれも平等に事実であることに変わりはないのです。「こうでなければならない」「こうであってはならない」と先入観に凝り固まっていては、自分の殻に閉じこもっているようなものです。どんなに素晴らしいものが目の前にあっても、自分の間尺( ましゃく) に合う部分だけを採り入れるだけです。それ以外の部分は見過ごしたり拒絶することになってしまい、事実そのものには触れることができません。

 龍樹が言う「信」とは、自分自身も忘れてしまっているそのような先入観の殻が打ち破られ、「あぁ、確かにその通りだ」と事実をあるがままに受け容れられることです。この柔軟な心があって初めて仏法に耳を傾けることができるようになります。こういった先入観の殻が取り払われた率直な態度から「智慧」への歩みが始まるのです。

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