ここからサイトの主なメニューです

Home > 読むページ > きょうのことば > いづれのよいづれのひとか帰せざらむ 三宝によりまつらずばいかでかこのよのひとびとの まがれることをたださまし

きょうのことば

きょうのことば - [2007年02月]

いづれのよいづれのひとか帰せざらむ 三宝によりまつらずばいかでかこのよのひとびとの まがれることをたださまし

「いづれのよいづれのひとか帰せざらむ 三宝によりまつらずばいかでかこのよのひとびとの まがれることをたださまし」
親鸞『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』(『定本親鸞聖人全集』2 p.247)

 この言葉は、親鸞が製作した『皇太子聖徳奉讃』という和讃(わさん)集の中の1首です。和讃とは、七五調の口ずさみやすい言葉で表現された和語による歌をいいます。親鸞が製作した和讃は500首を越えますが、その一つ一つに、仏教や仏教によって生きた人たちに対する自らの感動が表現されています。『皇太子聖徳奉讃』は、日本に仏教の礎(いしずえ)を築いた聖徳太子(574~622)の生涯を讃(たた)える75首から成り、聖徳太子の伝記類と聖徳太子が制定した『十七条憲法』に基づいて作られています。

 冒頭の言葉は、

どのような世の中に生きる、どのような人であっても、三宝に帰依せずに生きることはできない。三宝を依(よ)りどころしなければ、どうしてこの世を生きる人間の枉(まが)った〔ゆがんだ〕生き方を直(ただ)すことができようか。
という意味です。これは、『十七条憲法』第二条の「何( いずれ) の世、何( いずれ)の人か、この法( みのり)を貴(とうと)びずあらん。」「其(そ)れ三宝(さんぽう)に帰(よ)りまつらずは、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん」(『真宗聖典』p.963)という言葉に基づいています。「三宝」とは、仏宝(ぶっぽう)〔釈尊〕・法宝( ほうぼう)〔釈尊が説いた教え〕・僧宝(そうぼう)〔その教えに依って生きる人間の集い〕をいい、この三つで仏教の全体を表す言葉です。いかなる時と場に生きる、いかなる人であろうとも、仏教の視点から自らが生きる世と自らの生き方とを見つめ直していくことが何よりも大切である。このことを聖徳太子の生涯から教えられた親鸞の感動が、ここには表現されているのです。

 日々の報道を賑わす大きな事件から身の周りの些細な出来事に至るまで、今、私たちは様々な問題を突きつけられています。私たちはそれを世間一般の価値観や常識に基づいて解決しようと必死になるのですが、問題解決の糸口さえつかめないというのが実際のところではないでしょうか。そのような私たちに本当に必要とされるのは、問題を捉えていく私たちの価値観や常識そのものが、いったいどういうものであるのか、それがはたしてゆがみのないものであるのかを問い直す視点と、私たちに生きる道を明らかにする確かな根拠を見出すことなのではないでしょうか。

 聖徳太子は、人間の価値観や常識を根底から問い直す視点と、生きる道を明らかにする確かな根拠を仏教に見出した人であり、仏教に立脚して「この世」を生きる人間とその営みの全体を問いながら生き抜いた人でした。親鸞は聖徳太子に、仏教をよりどころとして生きる人間の具体的な姿を仰いでいったのです。親鸞がそうであったごとく、私たちも今こそ「其(そ) れ三宝(さんぽう)に帰(よ) りまつらずは、何をもってか枉(まが) れるを直(ただ)さん」という聖徳太子の言葉に耳を傾けなければならないのではないでしょうか。

Home > 読むページ > きょうのことば > いづれのよいづれのひとか帰せざらむ 三宝によりまつらずばいかでかこのよのひとびとの まがれることをたださまし

PAGE TOPに戻る

ここからサイトの主なメニューです