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きょうのことば

きょうのことば - [2006年10月]

宗教は人心をしてその根蔕を自覚せしむるものなり。

「宗教は人心をしてその根蔕を自覚せしむるものなり。」
清沢満之(『清沢満之全集』第6巻 p.339)

 この言葉は、清沢満之(1863~1903)が、友人の近角常観(ちかずみじょうかん)が1900年12月に『信仰之余瀝(しんこうのよれき)』を刊行した際、その序として寄せた文章の最初に書いたものです。清沢満之は、この言葉で、宗教が私たちにとってどのような役割をはたすものであるのかを確認しています。

 清沢満之が生きた明治という時代は、それまでの鎖国政策から一転して、外国からさまざまな文化や価値観が一気に流入してきた時代でした。列強諸国に対するために、富国強兵、殖産興業ということが主張され、人間そのものよりも物質が優先される傾向も強く、その中で人間が個としてあることと相互に関わっているということが不明確にもなっていったのです。清沢満之は、時代が抱えるそのような大きな問題を見すえながら、宗教が人間にはたすべき大きな役割を標題の言葉で確認しました。

 清沢満之は「宗教とは人間にその根蔕(こんたい)を明らかにし、自覚させるものである」と言います。「根蔕」の「根」は草木の根っこを言い、「蔕」は果実と枝や茎とをつなぐ「ヘタ」を言います。その二字を「根蔕」と並べることで「根もと、物事の土台、よりどころ、根拠」という意味を表します。一本の樹木に実を結ぶ多くの果実は、一つ一つがそれぞれの形や大きさ、色や味を持っていますが、その一つ一つは「蔕」を通して一本の幹につながるものであり、同一の「根」から生じたものです。私たち人間という存在も、それと同様に、一人一人がそれぞれに独立した存在でありつつ、その根源においては、いのちを共にしながら生きている。清沢満之はそのことを「根蔕」という言葉で表現し、「宗教」とはそのような存在の事実・根拠を私たちに明らかにするものであると言うのです。

 現在、私たちのまわりには「宗教」の名でよばれるさまざまなものがあります。しかし、「宗教」がお金儲けや権力を得るための手段に用いられたり、「宗教」の名のもとに戦争を正当化するという状況もあります。いわば、人間が「宗教」を利用することによって、人間のエゴイズムを増幅し、共に関わりながら生きているという事実を見失っていくという状況が起こっているのです。

 「宗教」の大切な役割は、清沢満之が言うように、あらゆる事柄を自分の都合のために利用し孤立していく私の生き方を照らし出し、人間がお互いにいのちを共にしながら生きているという事実を一人一人の中に明らかにするという点にあります。最近よく耳にする「自分らしく生きる」ということも、自らの「根蔕」が明らかになることを通して、初めて成り立つことなのです。

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