きょうのことば - [2006年08月]
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」
『歎異抄』(真宗聖典 p.634)
テレビのニュースや新聞の三面には、むごたらしい犯罪が毎日のように報じられています。それらの事件の中には、私たちの想像を越えて、まさに「極悪非道」といえそうなものもあります。メディアは、被害者や家族の悲しみと怒りを大きく伝え、そのような犯罪が二度と繰り返されることのないように、動機の解明や法の整備を専門家に求めます。そうした報道で気になるのは、読者や視聴者の正義感に訴え、罪を犯した人を「悪人」として告発し、社会から排除しようとするような論調が強くなっていることです。そこでは、犯人に対する怒りや憎しみだけが一方的に増幅されているように感じられます。
しかし、冷静に自らを省みるなら、ほんとうに「自分は絶対にあのようなひどいことはしない」と言い切れる人がいるでしょうか。親鸞は、無反省のうちに自らを善とし、悪をなした他者を否定しようとするような態度を厳しく批判します。冒頭に掲げたことばは、「しかるべき業縁にうながされるならば、どんな行いもするであろう」という意味です。もしそうせざるをえないような情況に置かれたならば、自分はどんなふるまいもしかねない、どんなに非道なこともやりかねない、という深い自省のことばです。親鸞は、そういう自らのあり方を自覚することの大切さを訴えているのです。
私たちは、たまたま生まれ育った境遇や、現在の生活や人間関係が犯罪を促すようなものでないので、今は重罪を犯すことが思いもよらないだけなのです。もし、考えもおよばないような情況に追いつめられたり、犯罪を引き起こすような条件が周りにそろってしまったならば、自分も何をしでかすか分からない。そのような想像力がとても大事なのではないでしょうか。
そういう自覚に立つなら、被害者への共感と共に、取り返しのつかない罪を犯してしまった人たちへの共感も生まれるはずです。さまざまに異なった性格・能力・資質・境遇の人間が一緒に生きていく社会を築くために必要なのは、怒りや憎しみを増幅させることではありません。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という自覚と、それにもとづいた他者への「思いやり」、つまり共感的な想像力を持つことなのです。