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きょうのことば

きょうのことば - [2005年11月]

愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり

「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」
親鸞「愚禿鈔(ぐとくしょう)」(『真宗聖典』P.423・435)

 この言葉は、親鸞(1173~1262)が著した『愚禿鈔』の言葉です。親鸞は「愚禿釈親鸞」という名のりのもとにその生涯を生き抜いた人です。「愚禿」とは、自らが愚かな凡夫として生きていることを確かめる言葉ですが、親鸞は自らの名のりを題名に冠した『愚禿鈔』という書物に、冒頭の言葉を2回にわたって記しています。

愚禿と名のる私の心は、その内側には愚かさを持ちながら、外見には賢く振る舞って生きていこうとしている。
 親鸞は、1201年29歳の時に法然と出遇いました。法然が明らかにしたのは、凡夫であるという事実に目覚め、ただ念仏するとき全ての者が救われていくという教えでした。法然のもとには、立場の違いを超えて、さまざまな人々が集い、仏教が開く平等の世界が実現していました。親鸞は、この出遇いを契機として、それ以降、凡夫である自らに向き合いながら生きていきます。

 私たちは日頃、いろいろな出来事に悩みやとまどいを持ちながら生きています。そんな中で、他の人に対して怒りや憎しみや妬みなどの思いを感じることもしばしばです。その思いは一瞬たりとも止むことがありませんし、自分の意志や努力によって消し去ることも不可能です。そんな問題を抱えながら生きることを余儀なくさせられるのが凡夫にほかなりません。ところが私たちは、自分が抱える問題を自らの力で解決できると安易に考えたり、逆にそれを直視せずに当然のこととして済ませていこうとします。実はここに私たちの本当の「愚かさ」があります。

 内側にさまざまな問題を抱えながらも、それを周りの人々に気づかれないように、悟られないようにと、うわべでは問題がないかのように振る舞い、ごまかしながら生きていこうとする生き方は、この「愚かさ」によって生み出されてきます。親鸞が「外は賢なり」という言葉で確かめているのはそのような私たちの生き方なのです。

 親鸞が「内は愚にして外は賢なり」という言葉で問題にしていったのは、自らの内面にはさまざまな問題を抱えていながら、それを無視したり、外見でごまかして、自分ではない自分を演じて生きていこうとすることでした。親鸞の「愚禿」という名のりは、自らに真正面に向き合い、自らを偽らずに生きていこうとする親鸞自身の決意を明らかにするものです。その親鸞の生き方は、私たち一人ひとりに、あなたは今どのように生きているのかと問いかけ続けているのです。

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