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きょうのことば

きょうのことば - [2005年09月]

菩提心は則ち良田なり、衆生の白浄の法を長養するが故に。

「菩提心は則ち良田なり、衆生の白浄の法を長養するが故に。」
「華 厳 経」(『大正大蔵経』第9巻 P.775b)

 大乗経典の一つに『華厳経』があって、その後半部分を「入法界品(にゅうほっかいほん)」といいます。「入法界」とは、法界つまりさとりの世界に入ることを意味しています。「入法界品」では、善財童子(ぜんざいどうじ)という名の道を求める青年が登場し、55人(数え方によっては53人)もの多くの善知識(善き師、善き友)を歴訪して教えを聞き続けていきます。この物語は、多くの人々に親しまれ、我が国では『華厳五十五所絵巻』という絵巻物として残されました。また、インドネシアのジャワ島にボロブドゥール遺跡があり、その巨大な石組みの建造物の回廊の壁面は、その多くが善財童子と善知識との出会いの場面で埋め尽くされています。

 上に掲げた言葉は、第53番目の善知識、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が善財童子に語ったもので、

「さとりを求める心(菩提心)は、たとえば良質で豊かな田地です。
 なぜなら、それは、生きとし生けるものの清らかな功徳を養い育てるのですから。」
という意味です。菩提心を発した善財に対して、弥勒は、その菩提心がいかにすぐれた功徳を具えているかを、さまざまな譬喩(ひゆ)によって明らかにしています。良田が作物を豊かに生長させるように、菩提心は衆生の清らかな功徳を生み出すというのです。

 菩提心はさとりを求める心ですから、直接的には、自分がさとりを求めて仏の智慧(ちえ)を獲得しようとする心を意味します。ところが、『華厳経』がいう菩提心は、それにとどまるものではありません。それは、自身が苦悩から解放されるとともに、あらゆる衆生を苦悩から解放しようとする心でもあるからです。その意味で、菩提心は、自他の安らぎを求める心だといってよいでしょう。本来、自他の安らぎは、互いに深くつながっています。それにもかかわらず、私たち衆生は、他人が安らかになることよりも、自分の安らぎを優先させようとします。そのような、自他を区別して自己中心的に生きようとする衆生の姿を、仏は、煩悩に染められていると教えるのです。

 しかし、その衆生は、いつまでも煩悩から抜け出すことができず、煩悩に染まったままの存在かといえば、そうではありません。弥勒菩薩は、衆生に「清らかな功徳」が生まれるのだと説きました。つまり、「良田」にたとえられる「菩提心」こそが、本当の自他の安らぎを生み出すのです。それゆえに、弥勒菩薩は、善財童子が発した菩提心を確かめ、讃嘆しているのです。

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