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きょうのことば

きょうのことば - [2005年07月]

己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり

「己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」
最澄『山家学生式(さんげがくしょうしき)』(『日本思想大系』第4巻p.194)

 「あなたの人生にとっていちばん大切なものはナニ?」。こんな質問をされたら、あなたならどう答えますか。かつてビートルズは「愛こそすべて」(ALL YOU NEED IS LOVE )とうたい、世界の国々に同時中継されました。また、どこかのテレビ局で流された「愛は地球を救う」というスローガンも耳になじんでいます。

 <愛>はしかしながら、仏教では否定的なイメージをもって語られてきました。「愛執」といい、「渇愛(かつあい)」といい、また「愛煩悩」という語が示すように、<愛>は否定され超えられるべき煩悩と見なされています。私たちの日常的な<愛>は自分本位なあり方に染められています。自分の<愛>の対象を手に入れるためには、他人を排斥し、傷つけることさえしてしまいがちです。その意味で<愛>は煩悩であるという考え方が、仏教では一貫しています。

 私たちの打算的な<愛>にたいして、仏教では<慈悲>を唱えます。<慈悲>という「慈しみ悲しむ心」が、ほんとうのやさしさや思いやりであり、私たちの<愛>のめざすべき方向を示しています。日本天台宗の開祖・伝教大師最澄(767-822)は、<慈悲>の最上のあり方を、「己れを忘れて他を利する」〔忘己利他(もうこりた)〕という語で教えています。冒頭のことばは、「自分を忘れて〔忘己〕他者の幸せのために尽力する〔利他〕ことが、慈悲の究極のすがたである」という意味であり、最澄の『山家学生式』に述べられています。

  「己れを忘れる」とは、自分の都合や損得勘定を離れて、純粋に相手の立場にたってものごとを見、対処していく態度や生き方をいいます。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」のなかで「アラユルコトヲ自分ヲ勘定ニ入レズニ ヨク見キキシワカリ」というのは、この「己れを忘れる」というあり方を語ったものです。「己れを忘れる」というあり方によって始めて「他を利する」〔利他〕という実践が可能になる、と仏教は教えます。

 「己れを忘れて他を利する」という崇高な教えは、私たちの打算的な<愛>のありようを照らしだす鏡です。そして、この教えはあくまでも私たちの日常的な<愛>の実践の延長上に、あるいはその深まりにおいて見出され、実現されていくものでしょう。誠実に自分の<愛>を生き、悩むことを抜きにして、「己れを忘れて他を利する」という理想が実現される道すじはどこにもありません。そこにおいてこそ、他者とのかかわりを生きる存在である私たちにとって、必ずや深い喜びが見出されるに違いありません。

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