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きょうのことば

きょうのことば - [2005年06月]

生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。

「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。」
清沢 満之(きよざわ まんし)(『清沢満之全集』第6巻p.111)

 科学が発達し医療が進歩した今日の日本社会では、生命のメカニズムが遺伝子レベルで解明され、臓器移植や遺伝子治療も導入されるようになっています。それらの根底にある機械的・物質的生命観の影響もあって、「私のいのちは、私が死んだらそれでおしまい」という考え方が一般に広まってきているように感じられます。健康に生きている間が花だからと、老人や病人を施設に押し込め、死を葬祭センターに任せて、できる限り死を忘れようとしているのが現代人ではないでしょうか。

 しかし、老・病・死が遠ざけられ、見えにくくなった社会の中で、私たちはほんとうにそれぞれの<いのち>の花を咲かせているでしょうか。若さや豊かさ、健康や快楽を際限なく美化するメディアに囲まれながら、街を行く人々の表情は孤独で、どこか憂いや不安を抱えているように見えます。いきいきと輝くこどもたちの目や、心を動かされるような笑顔に出会うことが少なくなっているような気もします。このような日本社会を覆う漠然とした暗さは、死を切り離してしまった現代的生命観と、どこか深いところでつながっているように思われます。

  それとは対照的に、仏教的生命観のポイントを言い表しているのが、冒頭に掲げた清沢満之(1863-1903)のことばです。清沢は、この言葉に続けて「我等は生死を並有するものなり」と述べ、仏教が老・病・死を<いのち>に内在する事実として受けとめることを確かめています。釈尊の求道は、老いや病いや死は苦しみであるという真理を見つめるところから出発しているのです。その教えは、死の不安におびえ、生だけに執着した迷いの在り方から解放される道を教えています。

  清沢は32歳のとき、当時「不治の病」とされていた結核を病んで死に直面し、死の不安を克服すべく真剣に生死を越える道を求めました。私たちにとって最大の不安である死に正面から向き合うことを通して、死によって終わってしまわないような豊かな生の意味を見いだしていったのです。私たちが自己の存在の意味に目覚め、他の多くの<いのち>と共に、有限な生をいきいきと生きていくためには、この「死もまた我等なり」という自覚が重要な意味をもっているように思われます。

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